菅内閣と朝日新聞から見た新聞の果たす役割

  • 2011/01/04(火) 10:58:45

 年頭の菅総理大臣記者会見を聞いて、民主党を分裂させている現内閣は何もわかっていない内閣だと思わざるを得なかった。
菅さんが政治を志したきっかけは、田中角栄のロッキード事件だという。
この人の考えの中には、田中角栄=小沢一郎としかうつっていない。ネットでは、もはや田中角栄は裁判の途中で亡くなったが無罪であったということが定説だが、それすらも知らず「政治と金」の問題に決着をつけるのが私の使命だというようにしか思っていない。

http://www.asyura2.com/10/senkyo101/msg/494.html
http://www.asyura2.com/10/senkyo101/msg/281.html
http://www.pressnet.tv/release/5276

 勘違い甚だしい。

民主党を分裂させて正義が悪をやっつける構図など作っても、誰も認めやしない。
 田中角栄氏に対してやったのと同じ手法で小沢追い落としをはかっても、かえってやる側のボロが出るだけだ。
 自民・公明の野党が要求しているからそのやり方でやるなどという説明は、今の民主党の主体性のなさをさらけだすだけだ。
 こんな内閣、一刻も早くお引取り願いたい。
自公政権と同じ考え方の民主党ならないほうがましだと不愉快になった。



なお新聞、特に朝日新聞のていたらくについては、昨年ネットをにぎわした。
「天声人語」を始めとする社説の類に大いなる憤りをもって、長年の朝日新聞購読をやめた人も多かった。
その朝日新聞が、最近、あのCIA協力者リストにのっていた主筆の船橋洋一が辞めたからか、少し変わったみたいだから読んでみてくれと友人が新聞を見せてくれた。
http://www.asyura2.com/10/senkyo93/msg/420.html

それが、下記にあげる「政治と市民」だが、これを読んではたと考えてしまった。
確かに現状把握はされている。
市民レベルでの情報収集や議論がさかんになり、テレビや新聞というメディアを媒体とせずとも判断できるようになり、情報操作により政権の思うようにならなくなった。
ネットの普及によるところが大きい。

このようなここでいう直接「的」民主主義の流れに対して、『「熟議」を促す司会役や、確かな情報を見極め整理して示す編集者も要る。市民とともに、政治もジャーナリズムも、その役割を担わなければならない。』と言うだけで、新聞がどのような役割を果たそうとしているのか、今までの反省を述べて これからどのように進もうとしているのかという指針がこの社説には何もない。

あのような朝日新聞の急激な変化がどこから来たのか、なぜそのようになったのか?
その反省を踏まえてどのようなメディアとしての責任を果たそうとするのかが書かれていない。

これで新しい出発が果たしてできるのか?

 この評論家のような文章は確かに一時期の朝日よりはましかもしれないけれど、ジャーナリストとしての決意など何も示されていない。

 そのことが書けないのが現状であり、日本のマスメディアのジャーナリスト精神を売り渡したマスコミの衰退といえるのだろう。しかし、このような状況が続けば、テレビも新聞もいらないという時代が来ることもまた事実であろう。
テレビも新聞も伝えない情報がネットで得られる今、真実を伝えず、為政者の御用機関となっていることの反省の上にまずたって、論ずるべきであろう。

朝日新聞  2011年1月3日(月)付
http://www.asahi.com/paper/editorial20110103.html

政治と市民―ともに論じる原点に戻る

 
イエスよりもノーの力で、支持よりも不支持の力で、動く。それが、この間の政治の姿ではないか。

自民党はだめだから民主党。小沢一郎元代表はいやだから菅直人首相。選択の時、有権者が寄せた淡い期待は、長続きはしなかった。

 支持を得るすべを忘れたからか。浮かび上がる道は相手をたたくことだと政治家は信じているかのようである。

 それが生みの苦しみなら良い。だが足の引っ張り合いの末に、日本全体が沈むことは避けなければならない。

 戦前を思い起こしたい。

 不況にあえぐ中、政友会と民政党の2大政党は腐敗と政争を繰り返し、ともに信頼を失っていく。79年前の5月15日、青年将校らが犬養毅首相を殺害し、政党政治は終わりを告げる。

 凶弾に倒れる2週間前、犬養はラジオ演説で「議会否認論」の広がりに触れ、訴えた。「吾輩(わがはい)は之(これ)に反して、確かに之を改善し得る事を信ずる」

 その信念は実を結ばなかったが、私たちも犬養同様、どんな状況であれ、政治を見限るわけにはいかない。逃げたところで、政治の方はどこまでも私たちを追いかけてくる。

■たくましさ増す世論

 当時と現在とでは重なる点もあれば、異なる点もある。

 新しいメディア環境を媒介とし、各地で「正義」や「公共」の議論が広がる。昨年はそんな年でもあった。

 マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」は昨春の放送開始以来、ブログやツイッターで反響が広がり、NHKオンデマンドの視聴は約6万回。著作の邦訳「これからの『正義』の話をしよう」は60万部に及ぶ。

 ブームは市民同士の議論を促した。

 若い東京都職員を中心に100人余りが加わる「Tokyo Think Sustainability」(T2S)は昨年、独自の「白熱教室」を4度開いた。高齢者が激増する東京の今後など、社会の持続可能性を語り合った。

 主催者の漆原隆浩さん(40)は「教授は正解のない問題を出し、どう考えるかと問いかける。難問山積のいま、そんな対話の場を設け、希望を持って行動する人を増やしたい」と言う。

 「PUblic Renovation Club」(PURC)は「新しい公共」に取り組む市民の集いである。これを唱えた鳩山由紀夫首相の退陣をきっかけに、お上任せではいけない、自分たちが主役になろうと、ツイッター上で火がついた。メーリングリストには全国の約1500人が登録する。近隣の人がそれぞれ集まり、子育てや「買い物難民」など身近な問題を話し合う。

 政治や経済の危機が叫ばれる。しかしそれは、自ら考えるよう市民の背中を押してもいる。私たちが「お任せ民主主義」を脱する好機だと捉えたい。

■直接「的」民主主義へ


 菅首相は就任前、「議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めることだ」と語っている。時々の世論に敏感すぎると政治が落ち着きを失い、負の影響も大きいからである。一つの見識ではあろう。

 だがネットの普及は、市民がマスメディアを介さず直接情報を手に入れ、発信することを可能にした。「次の選挙までは任せろ」といったところで、政権の意のままにはならない。ネット上を生の情報が行き交い、それが世論を動かし、政権の体力を左右する。

 菅内閣の支持率が急落した節目は、尖閣事件だった。衝突映像の公開を渋り、「知りたい」という欲求を妨げたことが影響したのだろう。情報と表現の味を覚えた市民は、貪欲(どんよく)である。

 この流れは変えられない。民主主義はより直接的な形に姿を変えていく。

 それは悲観すべきことではない。市民が情報を手にし、表現することは、民主主義の成熟に欠かせない。

 むろん世論が感情に身を任せ、一方向に雪崩を打つことは避けなければならない。問題は、新たなメディア環境を政治参加の手段として使いこなせるか。「知りたい」欲求を「考えたい」に高め、成熟した民意を形成できるかどうかにかかっている。

 それに資するものこそ、市民間の対話だろう。世代や職業の違う人が意見を交わし、耳を傾け、考えを深める。自分の見解を改めるのもいとわない。

 サンデル教授のように「熟議」を促す司会役や、確かな情報を見極め整理して示す編集者も要る。市民とともに、政治もジャーナリズムも、その役割を担わなければならない。

 聞く力と説く力、議論する力をともに磨きたい。そのとき政治の役割は、「独裁者」であるはずはないだろう。

■「決定力」とは何か

 政権交代に対する市民の幻滅の大きな理由は、民主党政権の「決定力不足」ではなかったか。

 消費税の議論にせよ、企業献金の禁止にせよ、約束したのに腰が定まらない。覚悟も準備も足りなかった。

 ただ、首相がエイヤと決断すれば済むわけでもない。資金や選挙の世話をして派閥を養い、数の力にものを言わせる昔の流儀にも戻れない。情報と表現の力を手にした市民は、主権者を蚊帳の外に置いた決定を見過ごすまい。

 決める仕組みの再構築が必要だ。

 民主主義の原点に戻ろう。

 市民と為政者がともに考え、議論を通じて合意を探る。迂遠(うえん)なようでも、ほかに道はあるまい。

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