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乳癌 (3)放射線治療

  • 2013/11/16(土) 10:21:57

 癌切除手術が済むと、治療としては、放射線治療・抗がん剤治療、ホルモン治療と進む。

私もまた主治医に言われるまま、30回の放射線治療に大学病院まで通うこととなった。

 徳島に来て、車のない生活がどれだけ不便か身に沁みた。東京では、交通網が整備されているため、不自由だと感じたことがなかった。車はあって月2万の駐車代を払ってはいたが、どうしても利用しなければならないという必要性はなかった。土日に郊外へ出かけたり、買い物に行ったりするぐらいで、生活になくてはならぬという必需品ではない。

 徳島に来た昨年、暑いときだったからか歩いている人も自転車もほとんど見かけなかった。駅に行けば賑やかなのかと行ってみて驚いた。店もなければ人もいない。汽車(電車はない)も一時間に何本しかない。

 東京から乗ってきた車一台しかないうちは、夫が仕事のために車で行ってしまうと交通手段は、自転車か歩くしかない。

 大学病院までの道のりを毎日自転車で通うこととなり、3月18日から5月2日まで、30回の放射線治療を受けた。

この時、私は癌という病気になったという事実に動揺していた。テレビをつければ、癌で亡くなったというニュースばかり流れるようで、「これからどうなるのだろう。どうすればいいのだろう」という不安に押しつぶされそうだった。

病院の廊下を歩いていても、何も徳島について知らないという不安で涙がこぼれそうだった。

廊下に貼ってある癌患者への案内を止まって見ることさえも、私は癌患者だと知られるようでいやだった。今思うと、私はまだこの時も自分が癌患者であるという事実を認めたくなかったのだ。

「2人に1人は癌になる時代」という文字に目に留まる。それだけかかる人がいるのに、癌患者のほうへは分類されたくないと思ってしまう。しこりが癌だったとはっきり告げられても、気持ちが追いついていかない。

放射線の受付から放射線待合室が離れていて、この待合室の近くにナースステーションのように何かあっても聞けるところがない。待たされるだけ待たされても呼ばれないとき、ほんとうに不安になった。はじめて来てどんな病院かもわからず、この病院で大丈夫なのかというという心配に襲われる。

非常に不安定な気持ちで、放射線治療に臨んだ。放射時間は5分もないぐらいで、痛くもなんともない。ただ横たわっているだけ。

だけどなんとなく目を開けたら放射線を浴びるような気がして、最初は目も開けられなかった。ぎゅーと目をつむって照射されるのを待っている。そのうち目を開けていても大丈夫だということがわかって、体の力を抜いて臨めるようになった。

 この頃、私は不安を払拭するように、癌克服について書かれている本を読みあさった。食事療法や再発・増殖予防のため、何かできる手がかりが欲しかった。ただ、言われるままに自分の気持ちが追いつかずに治療に身をゆだねるのではなく、治療を受けながらも、自分も何かしていると思える時を過ごしたいと思った。

このときの言いようのない不安を払拭するためには、どうしても自分も前向きに参加できると思える手がかりが欲しかった。

 分類すれば東洋医学、西洋医学、読めば読むほどどちらも同じところへたどり着いていくように思えた。

これらの本から得た知識について、誰かと話がしたいと思った。特に癌患者と。

 この頃、私は、癌が低体温で増殖し、癌にとっては居心地のいい温度で、癌を増殖・再発させないためには体温を上げること。そのためには、体を温める食品をとることだと思って、動物性たんぱく質から植物性たんぱく質へ変えていた。(詳しくはまた述べることにします)

だけどそのことについて、知識を得れば得るほど、聞いてもらいたいと思うようになった。お医者さんに言っても、「肥満にならなければ何を食べてもいい」と言われて、自分のしていることが正しいのかも揺らいでいた。

 そんな時、放射線治療で通っていた病院の廊下で、癌サロンの案内を目にし、どうしてもそのチラシが見たいと思った。今となれば不思議だが、そのチラシをどうしてもとることができない。その案内の前を行ったり来たりしながら、意を決してそれを取るまでには、随分経っていた。

 そして、はじめて徳島で身内以外の人達の集まりに参加することになった。

思わず今までの我慢してきた思いを吐き出して、この日から私はやっと自分ががん患者だと自他ともに認められるようになったのだ。

 何回か参加するうちに、これから受けようかどうしようかと悩んでいる抗がん剤についての体験を聞くこともできた。何よりひとりで抱えていた不安が話をすることで胸のつかえがとれたように楽に軽くなる。

 そのうちに放射線治療中の医師への不安など、思い切って話すことでどれだけ安心できるかだけでなく、言うことで、病院の患者に対する態勢も変わると思えるようになった。

つまり、このときから医者も看護士も自分もそれをとりまく人たちといっしょに治療にあたっていると思えるようになった。

 この放射線治療に通うための自転車での往復は、気分転換と適度な運動と気持ちをリフレッシュすることにもなった。

発汗を促すために、しょうがのたっぷり入ったお茶を飲んで、片道30分自転車をこぎ病院に向かい、放射線治療前にもこのお茶をたっぷり飲んで、肌がやけどの状態になるのを防いで、照射後また30分かけて自転車をこいで家へ帰る。(筋力がついたら20分ぐらいで帰れるようになった。)

往復一時間のこの毎日の運動は、車がなかったからこそ得られたのかもしれない。孫の誕生と放射線治療とどちらが先かとやきもきしながら通ったあの畦道や山を望みながらの農道が、懐かしく思い出される。

徳島では、「車社会」の一言で、行政の交通網の整備は遅れているように思う。運転できなくなったお年寄りがおきざりにされているまま、この一言で何もかも片付けられてしまうようだ。

東京のような区や市ごとの循環バスもないし、買い物や通院、どこかへでかけるとき、これから年をとってどうすればいいのかと思うこともある。

つづく
 

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乳癌 (2) 手術

  • 2013/11/16(土) 10:17:27

 癌の切除手術をすると1月29日に決めてから、手術の予約がとれる最も早い日は2月27日と言われ、その日が手術日となった。

 2013年(平成25年)2月27日、そのときがやってきた。乳癌手術がこの日3件あり、前日までは、一番最初にやると言われていた。私の手術時間は一時間くらいで、あとの2人はそれぞれ2時間ぐらいかかるという。

 ところがなぜか順番がいちばん最後に変更になり、朝食をとってからは何も飲み食いできずにひたすら手術で呼びにくるのを待った。午前中に1人、午後の人が2時間くらいかかるのだから、まあ3時くらいかなと思っていたのに、着替えて準備をしても呼びにこない。朝からひたすらそれを待つだけほどいやなものはない。

最初だったらすでに終わっていたのにと思うとなおさらだった。

 4時頃だったのか、呼ばれて歩いて手術室まで行った。手術室に入る所の部屋で手術着を整え、手術室に入る時、付き添ってくれている夫や夫の両親が見えた。無意識に手を振っていた。

手術室に入ると、お医者さんなのかおじいさんが入口に座っていた。先の2人の手術で既に疲れ果てているのかと心配した。

手術台に寝て、手術について乳房温存か全摘かの確認があった。既に診察の時に写真を見せられ、温存するか全摘するか決めていた。どちらにしても存命率は変わらないということだったので、温存手術、つまりしこりはとるが乳房はそのまま残すことにした。

「温存」ということをはっきり告げようとするのだが、酸素マスクがずれている。一生懸命「マスクがずれている」というのだが、なぜかそれを聞いた先生は、「このマスクは臭いんです」という。ちんぷんかんぷんの受け答えが続いたが、何とか通じたようだった。だけど通じたと思ったらほっとして疲れがどっと出た。

麻酔を注入するという言葉を聞いたと同時に意識を失った。

 「和枝!和枝!」と夫の呼ぶ声で目が覚めた。気がつくと担架に乗せられ、手術室を出たところだった。

麻酔が覚めたと思ったら、激痛が走った。思わず「痛い!」と叫んだ。叫ばねばいられないほど、しこりをとったところは痛くないが、リンパを切除したところが痛い。

目が覚めたとたん、叫び続ける自体となったが、担架を押している看護士さんは、先生の指示がないと痛み止めの注射はできないと、先生を探す。しばらく手術室の前に放置される。結局先生が見つからないということで、そのまま病室に運ばれることとなった。

手術室から病室まで「痛い!」と叫びながらで、このときほど時間が長く思われたことはない。痛みと不安とで見放されたような、どうなるのかと思う気持ちだった。

 先生と連絡がとれたのかわからないが、部屋でその看護士さんが肩のところに痛み止めの注射をし、しばらくすると痛みが感じられなくなった。

ほっとしてはじめて「やっと終わった」と思った。それにしても術後の患者の変化にすぐに対応できる体勢をとってもらいたいと、このときほど思った事はない。

手術後、私がまだ手術室で麻酔から覚めずに居る時に、切除したしこりを見せられ、「この硬さは癌だ」と言われたと夫が話してくれた。

癌の手術は、長いこと入院するのかと思ったら、手術前日、当日、手術後合わせて3〜5日ほどですむ。5日ほど入院した。

 退院して、まず手術したほうの腕が上がるのかが心配だった。

普通に手を上げることができた。安心した。翌日には、庭仕事も普通どおりできた。安心した。

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