事業仕分け 科学技術予算も同じ土俵で

  • 2009/11/26(木) 20:50:38

 

 今まで各省の大臣が予算さえ通してしまえば、それがどのように使われようがいっさい問われなかったため、できるだけ大臣などに顔のきく陳情して予算のとれる天下り官僚を雇い、予算をとろうとした。そのため天下りの温床となるなどの問題が出てきた。国民の税金を湯水のように使おうがどこからも何も言われなければ感覚が麻痺し、与えられたポストにあぐらをかいているだけで済んでしまった。

それが、政権交代によりどの省も仕分け人に同じ土俵で厳しく国民の税金の使い方を問われ、無駄だと判断されれば国庫に返納されてしまう。それだけ国民の税金を使うという意識をもっていて説明できなければ、ばっさりと斬られる。科学技術の予算も、防衛省の予算も容赦なく判定される。

どの省も同じようにふるいにかけられるこの事業仕分けは、国民の税金であるという意識を常に持たせるためにもなくてはならぬことだと思える。





 先日、事業仕分けで科学技術予算が廃止、縮減対象になったことに科学者からの反発が相続いているという。

政府主催の天皇在位二十年祝賀式典で祝辞を述べた理化学研究所の野依良治ノーベル化学賞受賞者などは、事もあろうに野党自民党に泣き付いて何とかしてくれと言ったというから驚きである。

スーパーコンピューター・GXロケット・地球ダイナミックス研究・大型放射光施設スプリング8を始めとする大型事業から、広く研究者に支給される資金まで、多くの項目が「廃止」や「縮減」とされた。科学技術予算はこれまで成長戦略の象徴として特別扱いされてきただけに研究者の間に反発と動揺が広まった。

有識者議員や日本学術会議、大学学長会からの声明や表明などが相ついだ。「国家存亡にかかわる」とか「世界から取り残される」「取り返しのつかない事態になる」「将来に禍根を残す」など。ノーベル賞受賞者が揃って鳩山大臣へ申し入れに行ったりしている。



私は、いい加減な税金の使いかたをしないためにも、これからもどれも特別扱いせずに同じ土俵にのせて、厳しく仕分けを行ってもらいたいと思っている。税金を使う以上、いつでも国民に説明できるようにすべきだし、無駄づかいも慎むべきである。

縮減や廃止となった事業もさらに行政刷新会議?で審議されどうしてもというのは復活する道もあるのだから。すぐに結果がでないけれども日本の国としてどうしても予算をかけて開発・研究していくというものについては、政府のめざす国家ビジョンとして予算を認め保障していくようにすればいいと思う。政府が認める研究者だけ集めて政府の研究機関を設置して国家プロジェクトの別予算として政府あるいは国家戦略室が管理していくという方法もある。

 誰だって日本の国が科学技術の最先端を行き、各国をリードしていってもらいたいと思っているはずだが、それと国民のためではなく利権がらみの無駄づかいを認めることとは別であるはずだ。

税金をかけていくからには、予算が認められてから国民のために意味のある使い方をしているかが問われるのは当然であるといえるし、それが説明できぬようないい加減なものは認められないのはもっともだと思う。

今まで「寄らば大樹の陰」で、説明責任を果たさずにきていたことのほうが問題だということを認識してもらいたいと思う。鳩山政権が国民から見えるようにオープンにこの仕分け作業を行っているそのことを多くの国民が支持しているのを忘れないでもらいたい。

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13 日航機墜落の真相は?爆発は相模湾上空。尾翼落下は下田沖

  • 2009/11/25(水) 13:14:31




 相模湾で垂直尾翼が発見されたということは、羽田を飛び立った123便が相模湾上空で何らかの衝撃を受け垂直尾翼を失い、制御不能のまま飛行していたということになる。
その後の捜索でこの垂直尾翼は相模湾で見つかり、尾翼落下は下田沖とみられている。 

 『日航機墜落事故 東京-大阪123便 「新聞見出しに見る20年間の記録」』 http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm

の事故直後の8月17日の新聞の見出しには、「 墜落日航機 垂直尾翼、空中で分解後 中央部だけで迷走 垂直尾翼落下 伊豆半島と大島間 発見漂流物は20ヵ所、30片 日米合同調査団が現地入り (毎日)」「 漂着した破片客室天井の一部 第四エンジンも発見(毎日) 」「尾翼落下は下田沖 海流で推定 (山陰)」とある。

また、この 「20年の記録」には、「在りし日のJA8119と、垂直尾翼を失って飛行する事故機 」として垂直尾翼を失った日航機 が秩父大滝上空を飛行しているのが写真に撮影されている。

垂直尾翼が飛ばされた(外部的要因しかない)


埼玉県秩父市大滝は群馬県御巣鷹山とは直線距離にして両神山を挿み、すぐのところにある。

これは、8月16 日の新聞見出しの「写真に垂直尾翼なし 会社員撮影「動かぬ証拠」と断定 航空関係者 (読売)」とあるものと思われる。

相模湾上空で何らかの異状が発生した場合、機体のコントロールが利くようであれば当然羽田へひき返すか、最も近い横田へ緊急着陸するだろう。それがなぜ御巣鷹山の方へ向かったのか?

爆発後横田基地へ緊急着陸する手はずが整っていたのに直前に拒否されて御巣鷹山方面へ向かったとか、自衛隊機2機に誘導されて御巣鷹山へ向かったとか言われているが、なぜ相模湾から御巣鷹山へ行ったのかについてはいまだ不明である。

操縦不能になり機体を安定させるため車輪を下ろし、流れにまかせるように漂いながら着陸できる場所を探していたのだろうか?


爆発後から墜落まで 
 
 「123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。

焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。

 ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のように不気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。

運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく。」


「操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。

航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。

 機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。

一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。

失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。

 7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(2475m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。゜山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。

 操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。

羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた。

 123便には最期が刻一刻と近づいていた。長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。

目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。

 機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。

この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。

 残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。」

というのが、「日航機墜落事故 東京-大阪123便」に書かれている垂直尾翼を失ってから墜落までの様子を追った記述である。



日航事故機は、
◎機体記号 JA8119  ◎型式 ボーイング747SR-100 ◎製造年月日1974年1月30日  ◎製造番号 20783 耐空証明 第48-028 ◎総飛行時間 25,030時間18分 ◎総着陸回数 18,835回  ◎新規登録年月日 1974年2月19日



 事故当日の出発から爆発までは
 
 「1985年(昭和60年)8月12日、ボーイング747SR−100型機のJA8119号機は、日航の定期便として羽田〜千歳503便、504便、羽田〜福岡363便を経て、366便として福岡から17時12分に東京・羽田空港に到着している。18番スポットでその後の123便として大阪への飛行準備をしていた。

 乗客は夏休みを利用した家族連れやビジネスマンが目立ち、509人が搭乗していた。この中には元マネージャーの選挙応援で大阪に向かう歌手の坂本九さんや、21年ぶりのリーグ優勝を目前に控えた阪神タイガース球団社長・中埜肇さん、ハウス食品社長・浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役で女優の北原遥子さんなどの著名人も乗り合わせていた。

 操縦席では左側の機長席には機長になるために訓練中の佐々木祐副操縦士が座り、教官の高濱雅己機長が右席に着いた。福田博航空機関士は、副操縦士席後方の定位置に着席していた。客室では12人の客室乗務員が職務についていた。

日航123便は18時4分にスポット18から移動を開始し、滑走路15に入った。 524人の乗客・乗員を乗せた123便は、燃料3時間15分ぶんを搭載して18時12分に羽田空港を離陸した。

123便は離陸後、機首を180度(真南)に向け、1万3000フィート(3960m)まで上昇をが許可された。このあと、2万4000フィート(7315m)への上昇が承認された。管制は羽田空港進入管制部から所沢にある東京航空交通管制部に移管され、大島の北を伊豆半島の下田市方面をめざして上昇していった。

 18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。

近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。

衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。

 操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。

それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。 」


この「よほどの危険」が何であったのか?出発から墜落までの軌跡をたどるとき、相模湾上空での爆発音が何なのか?なぜすぐに政府は救助に向かわせなかったのかなどいまだに謎とされていることは多い。

御巣鷹山に墜落して520人の身元確認作業の困難さについては、「沈まぬ太陽 御巣鷹山編」にあるとおりだが、真夏の猛暑の中遺体の確認は困難を窮めた。多くの医師・医学者や法歯学者の協力によるところが大きい。確認までには4ヶ月もの月日がかかったというが、それでも二人(うちアメリカ人一人)の身元は確認されなかったという。


この記録におけるその後の記述

「4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった。事故調の認定した墜落時間は「18時56分ごろ」としている。

位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。
 墜落現場は黒沢丈夫上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山の南東2Kmの地点に当たる。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、520人の犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、猛暑という季節的な悪条件も加わって腐敗の進行も早いので、身元の特定は困難の連続だった。

また、この当時はDNA鑑定技術もまだ十分には確立されていなく、地元・群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆けつけ、冷房施設のない体育館での猛暑と腐敗臭や遺体保存用のホルマリン臭など、劣悪な環境の中、多数の人々が協力しあって人海戦術で判別作業を進めた。

最終的な身元確認作業の終了にはおよそ4ヶ月間という時間と、膨大な人手を必要とした。しかし2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は遂に判明しなかった。

 事故調は、2年後の6月19日、事故報告書を当時の橋本運輸大臣に提出。事故原因について、1978年(昭和53年)6月、伊丹空港での「しりもち事故」で損傷した後部圧力隔壁のボーイング社修理チームによる修理がずさんだったため、圧力隔壁が金属疲労を起こして破壊され、急激な減圧とその時発生した衝撃波が垂直尾翼に流れ込み、JA8119号機は垂直尾翼の2/3とテールコーン(補助動力装置などが入っている)を失ってしまったとしている。

 しかし、この「圧力隔壁破壊説」には多くの矛盾が指摘され、事故から20年経っても本が出版され、航空機専門家、パイロットなど乗務員関係者、マスコミ関係者、そして遺族の方々らが真の事故原因解明を求めている。」
           

本文は主に『日航機墜落事故 東京-大阪123便 』(サイト管理人 祝部幸正) http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
からの引用であるが、これは米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」(宝島社刊)から祝部幸正が引用・加筆したものである。


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11月の和順庭

  • 2009/11/23(月) 15:45:23

11/1チューリップ球根を植え、寄せ植えをかざって
和順庭へ。トマトのあった所を耕して、石灰をまきました。 

ナスタチウムがよく育ちました。

植木鉢にビオラ「野うさぎミーモ」と「ラビットダンス」やシュガーパインなどを寄せ植えし道行く人から見えるように、置きました。このビィオラは、うさぎの顔に似た花を咲かせます。





チューリップの球根を植え、肥料をまき、畑を耕し、汗が出るほど働きました。仕事を終え、庭を眺めると、しだいに秋から冬の庭に移り変わって行くのがわかります。

コスモスやパイナップルセージ、チェリーセージ、ウインターコスモスなどの花がまだ元気よく咲いています。寒くなってきたので、パイナップルを堀り上げ、家で冬ごしさせることにしました。

11/1ねぎを土中に植え替えて、紅白大根を収穫
土曜日、朝から雨が降り、和順庭のトマトを抜いて石灰をまき耕したところに苗を植えるのは今日も無理かと思っていたのですが、だんだん晴れてきて午前中はあきらめていた野菜の苗の買い付けに午後から行くことにしました。

 行く途中で吉祥寺に寄り、電気店の期限ぎれになると通知が来ていたポイントで買物をし、「野方ホープ」というラーメン屋さんで昼食をとりました。

それから瑞穂町のジョイフルへ。暮れに毎年白菜をつけるので、白菜とキャベツの苗を買いたかったのですが、白菜の苗はすでになく、キャベツの苗とはじめて挑戦するマルチという野菜を植えつけるところに丸い穴のあいているシートを買いました。

それに和順庭に新しく仲間入りするうさぎの置物も。
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南入口で。

夕方和順庭に到着し耕し終わったときには、すっかりあたりは暗くなり植えつけたキャベツの苗の写真はとれませんでした。

苗に寒冷紗というネットのようなもので覆う予定だったのですが、お店の人と相談したところ、この寒い時期は虫もつかないし、販売されている苗は耐寒性があるから不必要だと言われ、やめました。

終わって和順庭あたりで食事をしようと車を走らせていると、今まで行ったことのないエリアに大きな西友があることがわかり、行ってみることにしました。小手指で食事して帰りました。

帰り降り続いた雨に洗われた夜空は、満天の星。また、多摩湖まで戻り、いつもよりはっきりときれいに輝く夜空の星を眺めました。



 
11/23冬桜、山茶花、花の苗を植えて
桜ヶ丘公園で買った冬桜や山茶花、花の苗を和順庭に植えました
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買った苗

植えた山茶花と

冬桜



11/28



ねぎを植え替えて


紅白大根の収穫


たまねぎ


キャベツの苗とナスタチウム


冬桜に花が咲いて


どうだんつつじの紅葉
 
花手鞠がまだきれい

南道路から和順庭を眺めて


パパガーデンのにんにく・らっきょう


ブルーサルビアとパイナップルセージ



北道路から和順庭を眺めて


マーガレットとチェリーセージ


ラベンダー畑




日本庭園

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