19  日航機墜落の真相は?  *事故機乗客 小川 哲氏撮影の写真 と ニュース速報 は何を意味するのか?

  • 2010/08/19(木) 10:55:42



 事故発生時のニュース速報の中で、「右側ドアが故障したので緊急降下」という事故機からの第一報が伝えられている。

 また、事故機に乗っていた小川哲氏の撮影した写真は、R5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚で、。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える。

画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます。」ということだった。

 このオレンジの物体ミサイル(標的機)だとすると、迫り来るその物体を撮影し、真相の究明を我々に残して亡くなったともいえる。

 ニュース速報では、すでに7時頃には墜落機を住民が目撃し、また、アメリカ軍も墜落現場を把握していたことがわかる。それなのに、なぜ翌朝まで墜落現場が特定されず、救助されなかったのか?隠ぺい工作が行われたと疑念をもたれるのも当然だと思われる。

 もし、この事故が今言われているようなミサイルの誤射だとすると、加害者の立場に立たされた日航職員もまた被害者ということになる。遺族との交渉中に亡くなられた日航職員をはじめとして、多くの方々の人生がこの事故によって失われたも同然のものとなったということになる。

「墓場までもっていく」ことでは、この事故で亡くなられた乗客の命やご遺族の願いは何ら報いられない。真実を知る者は、語るべきである。いや、その時が来たのだと思う。

 また、「ーJAL123便墜落事故25年目の記録ー」というよくまとめられているブログがありました。これから事故原因についてどのようにまとめられるのか楽しみです。
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-6.html








日航事故機乗客 小川 哲氏の残した写真は何を語るのか?
 


「日航機墜落の真実を求めて 」
 
ブログ
http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/
「一部引用:『週刊現代』8月14日号は、この点に関する本書の問題提起を4頁にわたって大きく取り上げている。タイトルは「JAL機墜落25年後の真実」。本書のグラビアにも掲載されている写真で、父母と妹の3人を失ったA氏から提供されたものである。そこに「何か」が写りこんでいる。

これはA氏の父親がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚である。最初の方は、窓の外の普通の風景で、これを撮影したのはA氏の妹で、旅の思い出として撮ったものとされる。だが、その次(10枚のうちの5枚目)から不思議な写真が続く。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える(『週刊現代』の著者インタビューより)。

青山さんはパソコン上でこの写真を拡大していったところ、オレンジ色に変色していったという。画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます」という。

ネガを直接鑑定すれば、この「オレンジ」の正体も分かるだろう。123便は「横」からのG(圧力)によって機体が揺れている。「後部圧力隔壁損壊」では横揺れは起きないという。この「オレンジ」が右方向から123便に接近しているとすれば、この「オレンジ」と123便墜落との間に重要な関連があるとは言えまいか。」

小川哲氏撮影の写真 

http://file.ascensionnote.blog.shinobi.jp/uhguihiu.jpg

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18 日航機墜落の真相は? *事故当時の管制官が思いを語る

  • 2010/08/18(水) 19:32:01

 日航機墜落当時、東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として上空の航空機と交信していた管制官が沈黙を破り、事故墜落時の悲鳴が忘れられないと書いている記事を紹介したい。事故を風化させないとの思いで、ここへ来て多くの人々が、知っていることを語ったり、事故当時の事が書かれているのをブログに抜粋したりして、自分のできることをしはじめた。この気持ちが何かを動かすことになるのかもしれないと思いながら。

asahi・com
http://www.asahi.com/national/update/0810/TKY201008100270.html
墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る(1/3ページ)
2010年8月10日16時48分

「夏になると当時に引き戻されるんですよ。(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの『ああっ』という悲鳴のような声が忘れられない」

 西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び、語り出した。

 25年前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。

 当時29歳。管制官になって8年目だった。先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。「そろそろ忙しくなるぞ」と思った矢先だった。

■午後6時24分47秒

 「ブーッ」。管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の日航123便の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「EMG」の文字が点滅し始めた。乗客と乗員計524人。午後6時12分に羽田空港を離陸し、大阪(伊丹)空港に向かっているボーイング747型機だった。部屋の隅から、上司が近づいてきた。

■同25分21秒

 「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6700メートル)に降下したい」。機長の声が英語でヘッドホンから流れてきた。

 「了解」。そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。

 心が騒いだ――。

     ◇

 東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなく、ふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。

■午後6時27分2秒

 「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね」

 「その通り」

 「どういった緊急事態ですか」

 やはり応答はない。「とんでもないことが起きているのでは」


■同28分31秒(地図上の1)

 「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」

 「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」

 衝撃的な言葉だった。普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。

■同31分2秒(同2)

 「降下できますか」

 「今、降下しています」

 「名古屋に降りますか」

 「いや、羽田に戻りたい」

 「何とかしたい」。そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。「これから日本語で話していただいて結構ですから」

 パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう、通常は英語を使う。でも今は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。

 123便は北に向かう。すでに隣の空域に移っており、無線の周波数を切り替え、別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。「切り替えたはずみで無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」

 じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。

 富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。「戻れるかもしれない」。かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。機体の高度は5分間で一気に3500メートルも下がっていた。

■同47分17秒(同3)

 「現在コントロールできますか」

 「アンコントローラブルです」。もはや管制官はまったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかは、わからなかった。

 「おれはどうしたらいいんだ」。絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。


■同53分28秒(同4)

 「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール」

 「了解しました」

 これが最後の交信になった。

 3分後、糸の切れたたこのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。その場で十数秒間点滅した機影は突然、消えた。

 体に電気のようなしびれが走った。薄暗い管制室は静まりかえった。背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。30秒ほどして、上司に促されて呼びかけてみた。「ジャパンエア123、ジャパンエア123」。応答はなかった。

 ヘッドホンを外し、席を立った。別室で報告書を書いた。妻には「いつ帰れるか分からない」と電話で告げた。頭の中で何度も、交信した「最後の30分」を繰り返していた。

 朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。ショックを気遣った上司に数日、休みを与えられた。事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。

   ◆  ◆

 管制官の仕事を続け、最近までいた部署では事故防止の対策づくりに取り組んできた。今は管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。だが、123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。

 事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。その後も、遺族や報道陣が多い8月を避けて、仲間や家族とたびたび登ってきた。

だが、尾根へと向かう険しい道のりや、事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。

 最近になって、 「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのかと気になる。

管制の現場には、御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。航空会社の経営はどこも厳しく、安全よりもコスト削減ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。

 25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。

     ◇

 日航123便墜落事故 1985年8月12日午後6時12分に羽田空港を離陸した大阪(伊丹)行きの日本航空のボーイング747型(ジャンボ)機が、12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡した。

スペイン・カナリア諸島の空港で77年にジャンボ機同士が衝突し、583人が死亡した事故に次ぐ惨事で、単独機の事故としては現在も世界最悪。

 国の航空事故調査委員会は87年、機体後部の圧力隔壁の亀裂が広がって破壊され、一気に噴き出した客室内の空気が尾翼などを吹き飛ばしたとする調査報告書を公表。

この機体は事故の7年前に伊丹でしりもち事故を起こして隔壁を損傷しており、この際にボーイング社が行った修理が不適切だったことが破壊につながったと結論づけた。

 御巣鷹以降、日本の航空会社は乗客を死亡させる事故を起こしていない。


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17 日航機墜落の真相は? *「スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜」から見る日航機事故

  • 2010/08/17(火) 11:37:03

「スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜」として書かれている「ロブノール」ブログには、当日の事故からその後の様子が描かれている。

この事故の流れがよくわかるので、紹介していきたい。(パイロット名などが間違っている : 高濱機長→進路の巡視、クルーへの指示など・佐々木副操縦士→操縦桿操作、エンジン出力調整など・福田航空機関士→エンジン出力調整、クルーのサポートなど)

ロプノール
http://lopnur01.dtiblog.com/blog-entry-1.html

スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜

2008/02/17(日) 01:11:52


 秋晴れのお台場は家族連れや若いカップルたちでにぎわっていた。学生だった頃10数年前は確かここには何もなかった。時の流れはこの場所を放送局やイベント施設の立ち並ぶ一大観光スポットへと変えていた。ふと空を見上げると数分ごとに大小さまざまな旅客機がお台場上空をかすめ羽田へと着陸してゆく。それはまるで華麗に現れては舞台のそでに返ってゆくファッションショーのようだった。

 その中でひと際目をひくのはジャンボと呼ばれるボーイング747の機影であった。その巨大な機体は大海をゆうゆうと往くくじらのようでもあった。息子は「ジャンボ!ジャンボ!」とおおはしゃぎだった。妻は「よくあんな大きいものが宙に浮くわね。何人くらいのれるのかしら?」「うーん確か500人くらい乗れるんじゃなかったっけ」ふと自分のなかにある数字が蘇ってきた。「500、、、500・・・524だ!」

20数年前に起こったある事故の紙面である。
『羽田発大坂行きJAL123便、乗客乗員524人を乗せてレーダーから消える。長野・群馬県境の山岳地帯に墜落・・・』

1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したが、午後6時56分30秒、群馬県側の山岳地帯である高天原山に墜落―乗客のうち重傷4名は8月13日に救出されたものの、520人は還らぬ人となった。

**********************************
事故から20数年経っていた。高天原山のあの尾根に来ていた。時折雨が降りしきり地上とは異なる別の世界を感じていた。

 上野村には子供のころ家族旅行で訪れていた。鍾乳洞があってイノブタの郷土料理を食べた記憶がある。神流川に沿う国道299は当時来た頃も今もほとんど変わらない気がした。

ただし上野村に入った頃からは見違えるような新しい道路と整備されたトンネルが現れた。そして浜平地区から御巣鷹の尾根へと続く道も途中のダムまではまるで有料道路のように整備されていた。しかしダムから先は落石注意の看板が現れ、一転して狭い山道になった。結局国道299より車止め(新)まで車で40分くらいかかった。

少し前までは旧車止めからの登山ルート(2k)があり見返り峠を経て約2時間かかっていた。今はもう少し上に車止め(新)ができたおかげでそこから徒歩で700m沢を上ると尾根に付く(約20分)。それでもかなりの急騰で、決してハイキングコースのようなものではない。

尾根に近づくと1D,2Eとか場所を区切る標識がでてきてそこには遭難者の墓標が散在した。尾根への道も急騰で平均傾斜30度の斜面だ。息せき切ってやっとのことで上りきった先がぱっと開けた。わずかな平らなスペースに昇魂の碑が現れた。花を手向け鐘の音とともに祈りをささげた。と同時に思わず涙が溢れた。不時着などでなくこの急峻な尾根に激突したのだ!そうあの時ここは地獄だった。−−−−−

<自衛隊/警察/消防団>
そこはまさに地獄だった。おびただしい残骸のなかに手や足や肉片が飛び散っていた。一瞬のうちに人間が物体と化す。屈強な男性も美しい女性も子供も老人も一瞬で肉片に変わる。理由など何もなく。こげたにおいは鼻をつきやがて強烈な腐臭に変わる。かつて感じたことのない臭いの恐怖であった。佐久間ニ槽は樹木にひっかかった人間に皮や黒く焦げた遺体をまのあたりにした。ホバリングするヘリは生い茂る樹木と燃料の匂いと肉片のスエタ臭いを一気にかき混ぜた。

人間の恐怖とは、得たいの知れない恐怖、不安、絶望感、理解しがたいものに恐れを感じる。明確なもの簡潔なものには恐怖を感じない。人は事実(死)を受け入れるまで恐怖と不安に苦しむ。昨日まで元気だったあの人がなぜ…という理解できない絶望感に、残された人々は突き落とされる。衝突時のスピードは263.7ノット(およそ480km/h)数百Gという衝撃に人間は死というより一瞬に原型を失う。事実機体前方部の遺体は地中深くまで埋まっていた。−−−−−

尾根を少し上に行くとトタンばりの小さな小屋があってその中に色あせた故人の写真や思いでの品が置いてあった。巨大な岩(X岩)があってそこから先にすすめない。道を迂回しまた少し登っていくと今度はおびただしい数の墓標の前に出た。上にも下にも前にも後ろにも細い道におおいかぶさるように墓標で埋め尽くされていた。520の墓標が立つこの山全体が墓なのだ。

<奇跡の生還者>
オチアイユミ、ヨシザキヒロコ、ヨシザキミキコ、カワカミケイコ。
当時非番でJAL123に乗り合わせたアシスタントパーサーだった落合さんの証言は極限状況、および事故原因を探る上で貴重な文章だ。ぜひ全文を読んでいただきたい。吉岡忍「墜落の夏」より
リンク http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm


<ディパーチャー>
その日の羽田ロビーはお盆前ということもあり帰省客やビジネス客でごった返していた。18時4分、123便は18番スポットを離れゆっくりと15番滑走路へ向かった。機内は帰省客やビジネス客でほぼ満席状態だった。

<パイロットたち:高原機長、佐々本副操縦士、福沢航空機関士>
クルーはその日は最後のフライトだった。(注1)
機長昇格を控えた佐々本(副操縦士)は左側(通常機長の座る位置)に座っていた。

JA8119機は離陸後羽田沖180度方向(南)に順調に高度を上げ館山沖で200度方向(南南西)に進路を変えていた。天候は快晴。いつになく夕日がまぶしかった。18時24分(離陸から12分後)、大島上空を過ぎ徐々に水平飛行へと入りつつあった。高度24000フィート(7200m)(注2)。

(注1:実際は航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった)
(注2:巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m))

突然スチュワーデスからの内線が入った。
「・・・たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか?」
「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」
〜ドーンという衝撃音〜(伊豆下田上空)

「なにか×××たぞ!」「ギアみてギア」高原はとっさに“スコーク77”を発信した。パイロットとしての直感だった。航空上での最高度のエマージェンシーコールである。果敢にACC(東京航空管制)との交信をおこなう。

高原は飛行時間3900時間を越えるの優秀なパイロットだった。”多少のことでは動じない肝っ玉の据わったパイロット”と慕われ、同僚や後輩たちと飲んでいるときでもパイロットにとって一番大切なのは技術や知識よりも経験感だと説いていた。

ジャンボはハイテク機であるがゆえ必ずそのフライト時の総重量を入力する。飛行距離による燃料や乗客数によりそのつど重心位置が変わり操縦に影響を与えるからだ。ある時チェックリストをみてこの乗客数と燃料にしては軽いなあと不審に感じた。気になって整備部に問い合わせたところキロとポンドを間違えて報告していたのだ。もし軽い重量をもとにフライトしていたら人為的な事故になっていたかもしれなかった。

そして今また悪い予感は当たっていた。「ハイドロ全部ダメ!?」

<リターンバックトゥーハネダ>
JAL123「アー、東京管制部、こちらJAL123便、緊急・・トラブル発生、羽田に戻りたい、22000フィートまで降下する、どうぞ」
管制部「22000フィートまで降下ですね。了解、要求通り承認します」
JAL123「大島へのレーダー誘導をお願いします」
管制部「右旋回しますか、それとも左旋回?」
JAL123「右旋回に移っています。どうぞ」
管制部「右旋回して、磁方位90度(真東)、大島レーダー誘導します」
――山崎豊子著『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)より――

<アンコントローラブル>
その時すでに垂直尾翼の2/3が脱落していた。ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。

もはや飛行機の艇をなしていなかった。垂直尾翼のないJA8119機は出来損ないの紙飛行機のように飛行し激しいダッチロールやフゴイドを繰り返した。舵は全くきかない。エンジンスロットルのみで機体を操縦していた。「これはだめかもわからんね」すでに手は尽くしたとわかったとき。しかし奇跡はおこるかもしれない・・・。−−−−−
−−−−−
パワーマックス!フラップアップ、フラップアップ、あたま上げろ、パワーー。ああだめだ。ー衝撃音ー。
ACC(東京航空管制)は必死に呼びかけていたが、18時56分02秒レーダー上にEMG点滅するJAL123の輝点がスッーと消えた。


<遺書/河口博次さん>
河口さんは異様な機体の飛び方に恐怖を感じた。「マリコ、津慶、千加子どうか仲良く。もう飛行機には乗りたくない。こんなことになるとは残念だ。さようなら。子供たちのことをよろしく頼む。今六時半だ。飛行機はまわりながら急速に降下中だ本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」

<坂本九さん>
この事件に巻き込まれた一番の有名人とえば坂本九さんこと大島九氏である。彼は東京大阪間は通常全日空を利用していた。お盆前の混雑から全日空が取れなくJAL123に乗ってしまった。遺体には結婚式を挙げた笠間稲荷神社のペンダントが胸に突き刺さっていたことで身元が判明する。

<乗客/Kさん>
吉岡忍氏の「墜落の夏」にKさんのことが語られていた。落合さんを手伝い一緒にライフベストの装着の仕方を乗客の方に指導した会社員の方だ。吉岡氏の文章にもあるとおり極限状況の中で他人のために行動できるなんてできるもんじゃない。もし自分っだたらそんな勇敢に振舞えるだろうか。毛布かぶってブルブル震えるのがオチなんじゃないか。そんなことをふと考えた。

<生還>
落合由美、吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子
他に比べ比較的元気だった川上さんでもCPKという筋肉ダメージの数値は4万を超えていた(通常は数10cpk)。彼女らは数十Gという衝撃の中を奇跡的に生き抜いた。

生存した彼女らは遺書を書いていなかった。なぜ書かなかったのか?自分はふと疑問に思った。吉崎さんにしても「どこかに不時着するのだろうか」ぐらいにしか思っていなかったらしい。落合さんの見た機内でも泣きそうになってるのは男性ばかりだったとある。そこに女性の精神的・生物学的な強さを垣間見ないだろうか。

この事故後飛行機は後方部の方が安全だという話を聞いた。でもこれには全く根拠がない。なぜならこの事故の場合衝撃で機体が分断し機体後方部はちぎれて尾根を飛び越えている。そのとき植林樹の上をまるで歯ブラシの上を沿うように沢まで落ちた。

これが衝撃を吸収できた要因らしいが自然樹なら堅いため衝撃吸収にならなかったかもしれないし、500Km/h以上で飛んできた鉄の塊の衝撃を吸収する角度やタイミングとはまさに奇跡でしか起こりえない。この奇跡と女性の精神的・生物学的な強さが生還につながったのではないだろうか。


<日航お客さま世話役(井上美代子さん)>
緊急に召集された乗客名簿520の一人の名前があてがわれた。
「こちらのお客様のご家族及びご親類の対応を頼む」井上さんはシュチュワーデスの教官だった「最悪の事態を想定して対応にあたってくれ」井上さんは××さんのご家族に藤岡市の対策本部前で始めて会った。

「今後対応に当たります井上です。何かありましたら遠慮なく申しつけてください」困惑した家族は事の詳細を必死に聞き出そうとした。遺族は時にはかなり厳しい要求をぶつけることもあった。「不謹慎だ、スリッパを脱げ・・・」
井上さんは困惑していた。家族と鰻料理を食べにいったとき突然倒れ、そのまま意識不明になり亡くなった。

<検死医>
事故現場から少し離れた藤岡市民体育館の中でもうひとつの戦いが始まっていた。前代未門500人を越す遺体の検死作業である。盛夏である8月の体育館の中は摂氏30度を越す。恐るべき劣悪な環境の中検死医たちはもくもくと作業を続けた。「先生、チョットきてください」ある一角から声があがった。三つ目も頭部だった!あまりの衝撃のため別人の頭部がめりこんでいたのだ。体育館の裏の側溝には体長2.5センチにも達した蛆虫の死骸で埋まっていた。それにオーバーラップし当分の間白米の飯が食べられなかったという。


<上野村/仲沢勝美さん> 、
通称ナラカツ。そのあたりでは知る人ぞ知る人物であった。豪放磊落。若い頃は人を殺めてしまったこともある。トレードマークの鉢巻にとにかく声がでかい。でも日航の事故をきっかけに彼の人生も変わる。

月命日の12日には必ず御巣鷹の尾根に上っていた。登山道を整備したり、高齢で山に登れない遺族のためにかわりに尾根の写真をとって送ってあげたり、遺族のために尽くされた。そんな彼も2006年1月脳梗塞のため倒れかえらぬ人となった。

<ラーメン風の子>
街道沿いにはコスモスが咲きほこる。もう少しすると群馬は厳しい冬を迎える。藤岡の古い町並みをすこしいくとラーメン風の子があった。当時と変わらない内装のようで自分はテーブル席に座っておもむろに中華そばを注文した。少しして家族ずれ4〜5人が来て奥の座敷を占有した。

母親らしき人が携帯で「今風の子にいるんだけどさぁ、来る?」と上州なまりでしゃべっていた。店は古いがなじみの客がつく味自慢の店のようだ。無愛想に出て来たラーメンは手打ちでおいしい。20数年前飯塚さん等検死医スタッフは道をはさんだ体育館で戦っていた。

ふと新聞のテレビ欄に目をやると思わず食べていた箸が止まった。その夜偶然にもクライマーズ・ハイの再放送の予定があったのだ。新しく立て替えられた市民ホールは時のながれを感じさせたが、日航機事故の碑とラーメン風の子はあの頃のままだった。

**あとがき**
世界最大の航空機事故は周知のようにボーイング社の圧力隔壁の補修ミスが原因で機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流により、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能となり、高天原山に墜落したということです(運輸省航空事故調査委員会の報告書より)

しかしそれでも今なお解明できない部分が多く残り、特に生存者の証言などからはこの圧力隔壁破壊説が正しいとは決していいきれません。それゆえ無人標的機ファイア・ビーなどによる外部破損説、フラッター現象説などさまざまな要因が信憑性を生み、20数年経ったむしろ現在の方がこの事故に関する関心の強さを感じます。

先日羽田空港の周りを歩いてきました。巨大航空産業が林立するあの一体には我々庶民には入り込めない独特の雰囲気があります。“ボーイングは国家なり”とあるように一機200億とも300億とも言われる航空機のハイテク技術及び政治的な駆け引きは永遠にこの事故を覆い隠すのでしょうか。この度のブログは事故原因についての究明ではありません。

事故をきっかけにさまざまな人々が巻き込まれてしまったという事実をもう一度考えていただきたかったのです。あの日一晩中ラジオから流れる乗客名簿の読み出しを忘れることができません。ショックで一睡もできませんでした。もうこのような事故を繰り返してはなりません。

JAL123便乗客乗員の方々、その御遺族の方達に心から哀悼の意を表します。そして自衛隊、消防、警察、検死医、日航職員、上野村、藤岡市の方々、その他この事故に人生を巻き込まれていった方々、その御尽力に敬意を表します。

2008年2月 横田タカン

<参考文献>
日航機墜落123便、捜索の真相 河村一男 イーストプレス
日航ジャンボ機墜落  朝日新聞の24時 朝日新聞社会部編 朝日新聞社
墜落の夏  日航123便事故全記録 吉岡 忍 新潮社
疑惑  JAL123便墜落事故 角田四郎 早稲田出版
墜落遺体  御巣鷹山の日航機123便 飯塚訓 講談社
墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実 飯塚 訓
JAL123便墜落「事故」真相解明 (御巣鷹山ファイル) 池田 昌昭
JAL123便は自衛隊が撃墜した (御巣鷹山ファイル) 池田 昌昭
沈まぬ太陽(三) 御巣鷹山篇 山崎豊子 新潮社
なにか云って 8・12日航機墜落事故26遺族の記録 池田知加恵
雪解けの尾根 日航機事故から11年 池田知加恵 ほおずき書房
クライマーズ・ハイ 横山秀夫 文藝春秋
御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年 米田憲司 宝島社
隠された証言 日航123便墜落事故 藤田日出男 新潮社
パイロットが空から学んだ危機管理術 坂井優基 インデックスコミュニケーションズ 2008/02/17(日) 01:11:52| 未分類| トラックバック:0| コメント:7

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