誰のためのダムなのか? 5  私論

  • 2009/10/27(火) 12:16:27

 


 八ッ場ダムに行ってみて思った。

 1947年のキャサリーン台風の被害を受けダム建設が計画されてから、何年経っているのか?

 計画から57年、総工費は史上最高額に。

 「7割完成した」とあるが、建設工事費が7割使われただけで工事の進捗率ではないという。

 これからどれだけの税金をつぎこまねばならぬのかすらはっきりしていない。

 私が生まれる前から計画、着工されていながら、いまだに完成していない。

 その間に水の需要も計画時とはかなり変わってきており、現在あるダムで充分足りるようになってきている。

 治水・節水技術も計画当初とは比べものにならないぐらい進歩している。

 河川の氾濫に備える技術も格段の進歩である。

 それでも八ッ場ダムは予算額を超える巨額な税金を投入し、工事をつづけている。

 どうしても必要なダムならば、すぐにでも完成させて需要に応えなければならないはずなのに、これだけ長い時間かかるということは、すでにもう今はあってもなくてもそれほど困らなくなっているといえる。

 「下流域に住む人たちのために是非ともダムはいるから」と地元住民と交渉し説得させても、この時点になると当時のダム建設の目的からはかなりずれてきているように思える。

 下流に住む者のためと地元住民を説得し、国が代替地など住民の立場に立った村づくりの視点で交渉を進めてこなかったことはあきらかである。

 長い間の国との交渉の中で、ダムさえできれば何もかもよくなるという案しか提示されてこなかったし、下流の地域住民のためにダム建設で村がよくなると自らを納得してあきらめることしかなかった。

 鳥取県のように、ダムを中止することになってはじめて住民の立場にたって県と村がいっしょに治水と村づくりに取り組み、湖水に村を沈めることなく村がよりよく生まれ変わった例もある。

 ダム建設工事を進めれば進めるほど、ずるずると長引けば長引くほどうるおうところがあるのかもしれないが、その間、村は荒れ果て、住民も精神的にずたずたにされ続ける。

 
 ダム建設で土砂が下流に運ばれず、海岸が侵食されて新たな護岸工事が必要になる。ダムにたまった土砂も除去しなければならなくなる。

 しかも最近、すでに古くなったダムの亀裂や、周辺家屋の家や地盤のひび割れなどといった、すでにあるダムのメンテナンスへも税金を投入して対応しなければという問題も起きてきている。

 九州の大蘇ダムは、600億円かけてダムはできたが、水がたまらぬダムで、建設時には水が豊富に使えることが建設条件だったのに、あいかわらず住民は水に困っている状態だというし、北海道の東郷ダムは、漏水が発生し、当初の事業費は63億円がなんと379億円と6倍にもなっているにも関わらず、使用できずにいるという。

 今までの政権は、ダム建設が決定してしまうと途中での見直しなど何もしてこなかったともいえる。

 ダム利権にむらがる業者や政治家が、必要なくなってからも国民のためというより、自分たちのために不必要なダム建設を続けているとしか思えない。

 これからかかる工事予定額の半分の額でも、八ッ場の村づくりのためにお金を投入し、破壊された村と住民の心の再生のために使われればと思う。

 吾妻川の美しい渓谷は、壊してしまってからではよみがえらすことはできない。

 あの歴史ある八ッ場の村を湖底に沈めてしまってからでは、もとにもどすことはできない。

 ダムに依存せずに何とかする方法はいくらでもあるはずだ。

 人工の道路や橋、ダムをつくっても、あの美しい自然にはそぐわない。

 住民の生活を豊かにするために、個人ではなく村の再生のために使えば、長いダム建設に翻弄されてきた八ッ場の人たちも救われるのではないか?

 政権が交代して、「コンクリートから人」への転換の象徴として、このダム問題の行く末がどうなるかは意味のあることである。

 政権交代直後のマスコミは、このダムを建設するほうが中止するより安くつくとかという間違った情報のみ流していたが、この頃はやっと正しい情報が新聞でもテレビでも報じられるようになった。

 現地へ行って、また調べてみて、ダムを中止し、美しい八ッ場がよみがえり、ダムに翻弄されてきた住民の生活が豊かに暮らせるようにと思った。

 新鳩山政権は、ダムを中止しても今後村人へのアフターケアも充分していってもらいたいと思わずにはいられない。

 

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