アメリカ・カナダを旅して思うこと 3、フリーダムからワンワールドへ

  • 2011/08/21(日) 15:55:53

3、フリーダムからワンワールドへ
 
 今度の旅の目的の一つに、あの9・11のワールドトレードセンターを訪ねるということがあった。このワールドトレードセンター(世界貿易センタービル)の跡地へ行くと、あの飛行機が突入しなかったが破壊された第7ビルはすでに新しいビルに生まれ変わっていて、中心となるフリーダムタワー(現在はワンワールドトレードセンタービルと呼んでいる )の建設も、9月11日の式典に合わせて、着々と進んでいた。



ここで服部さんは妙なことに気がついた、と言った。
みんなフリーダムタワーと言ってるのに、実際は随分前に、公式名はワンワールドへと変わっている。最初は国民の間では自由の象徴として「フリーダム」が使われていたのに、いつのまにか政府側は正式名を「ワンワールド」にした、と言う事を知らないのかも、と。また奇妙な形にも気がついた。6つの三角形を上下に組み合わせて設計されたビルで、上面と下面は四角なのに、その途中は6角形になっていて、真上から見たら6角形のビルに見えるだろう、と言うのだ。
市民のための独立メディアセンターIndependent Media Centerが、
実は「666 Broadwayにあって、Jewish Pink というユダヤ市民団体がはいっていて、結局、その財団がサポートしていて、何かとユダヤの人は6が好きな感じで、何やらこのタワーにもユダヤのにおいを嗅ぎつけたようだ。

 さて工事中でどのような所になるのかはわからなかったが、最近報道陣に公開された広場は、かつてあった二つのトレードセンターのビル跡が四角い池になり、その壁面は滝の流れとなっているという。その四方に犠牲者の名を刻むという。

 ワールドトレードセンターへ駅から行く途中、郵便局へ寄って日本への絵葉書を投函した。この郵便局の荘厳な建物は、あの第7ビルがぴったり隣接していたのに、無傷なまま残っていた。この郵便局を傷つけることなく、どうやってあの第7ビルが破壊されたのかも、不思議なことだった。




あの9・11で破壊されたビルの周囲を巡り、工事中だとはいえ、こんな狭い所に、あの双子のビルが建てられていたのかと思った。ツインタワーの設計が日本人であったことも初めて知った。
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「ウィキメディア」からの引用によると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF)

『かつてワールドトレードセンターは、「ワールドトレードセンター・コンプレックス」という5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィス/商業センターであった。

コンプレックスは1WTCから7WTCまでの7つのビルによって構成されたが、特にその中心であったツインタワー(1WTCおよび2WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。日本で単にワールドトレードセンタービルといえばこのツインタワーのことを指した。

2001年9月11日の9/11テロ(アメリカ同時多発テロ事件)によって崩壊して以降は、「グラウンド・ゼロ」又は「ワールドトレードセンターサイト(跡地)」という呼び名が定着している。

現在は、1 ワールドトレードセンター(註)を中心とした新ワールドトレードセンターが建設中である。
             (中略)
設計にはコンペの結果日系アメリカ人建築家のミノル・ヤマサキの案が選ばれ、敷地の大部分を低層ビルや公共の広場(プラザ)とし、隅に二棟の直方体 (63.4m × 63.4m × 415m) の超高層ビルを建てるという建設計画案が1964年に発表された。』

(註)http://ja.wikipedia.org/wiki/1_%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC
1 ワールドトレードセンター (英語:One World Trade Center) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区のアメリカ同時多発テロ事件で崩壊したワールドトレードセンター跡地に建設中の超高層ビルの名称。以前はフリーダムタワー(Freedom Tower)と呼ばれていたが2009年に名称変更が決まった。2013年完成予定。
              (中略)
ワールドトレードセンター跡地で進行中のWTC再建計画は、「1 WTC(en:One World Trade Center)」など5つの超高層ビルとツインタワー跡地の慰霊場、地下の商業施設、パストレイン・ニューヨーク市地下鉄・バスターミナル等のターミナル施設などからなる。そのうち最も高い「1 WTC」の高さは、アメリカ独立の年にちなみ1,776フィート(約541m)(本体は約415m、尖塔部分含め約541m、延べ床面積約24万m²)である。

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 このワールドトレードセンターの工事を眺めるように、道を挟んで教会があり、工事の音や人や車の灼熱の雑踏の中で、そこに植えられた木々だけが木陰をつくっていた。そこに眠るいくつかのお墓は犠牲者のものだろうか?この教会はそのまま破壊されることなく残っていた。

このあたりで眺めていると、9・11の資料や写真集を買わないかと声をかけられた。それを日本円にして1000円ほどで購入することになった。

慰霊の気持ちで訪れても、9・11までは工事中のビルを眺めることぐらいしかできない。それでも、ぐるっと周囲をまわりながら眺めようと歩き始めたが、不思議なことにある所まで来ると、ぞくぞくするような寒気に襲われた。鳥肌がたつような震えがして、不思議な感覚にふと辺りを見回すと、9・11で亡くなった消防士の慰霊のレリーフがあった。

この時は何か後ろ髪を引かれるような思いを持ちながらも、さらに歩を進めた。周囲のビルの中に入ると、9・11の経験者が語り部となり、当時のことを話されていた。何人もの人達がとりまき、聞いていたが、私には話される英語があまりよく理解できなかった。

広島・長崎の原爆のことを海外から来た人達に伝えるとき、どんなに理解する気持ちがあっても、言葉が通じなければ、正しく伝えることができないであろうことにも思いが及んだ。できるだけ多くの言語通訳があれば、より伝えようという思いが伝えられることだろう。

 これは、あらゆることに言える。レストランで注文しようとメニューを見る。材料名などが列挙されていても、それがどのような料理として出てくるのかは検討がつかない。写真でもあれば、わかる。

国際化ということで、外国からの旅行者を受け入れようとするなら、まず言葉が違っていてもわかるような配慮をすることが、何より求められると思った。言葉が通じなくても、写真や絵など聴覚だけでなく視覚からも理解できるようにするなどの工夫があれば、その心遣いは必ず通じることだろうと思われた。

 この時は工事中のビルのまわりをまわることでそのまま帰ったが、私はなぜかあのときの鳥肌がたつ思いは何だったのだろうか?と考え始めていた。

そのとき、あの日航機墜落の御巣鷹山へ登ったときのことを思い出した。やはり途中で、震えと山中がすすり泣いているような無言の訴えを感じた。この時は事故について何の疑問も持っていなかったし、この日の山道は雪も残っていたので、雪による寒さからかと自分にも言い聞かせて帰った。

私には、これといった霊感があるとは思えなかったから、このときはあまり気にもとめなかったが、あの御巣鷹の山のすすり泣きはいつまでも多くの墓標とともに蘇り、何かを訴えずにはいられないのではと思い始めた。

それからこの日航機墜落のことを調べ始め、「日航機墜落の真相」http://wajuntei.dtiblog.com/blog-category-6.htmlとしてブログに書き続けた。服部さんも「日航機墜落の真実を求めて」というサイト
http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/に書いている。

 なぜ墜落後すぐに救助に向かわせず、自衛隊員を待機させたのか?なぜ、墜落位置は特定でき、米兵が救助寸前まで行きながら、命令で引き返したのか?など、あらゆる疑問が解けぬまま残った。ただ、はっきり言えることは発表されているような事故ではないということだ。

このワールドトレードセンター跡地で感じたものは、そのときのような山のすすり泣きではなかったが、その後ずっと私の中でひっかかっていた。そして、このままでニューヨークを離れ、ロサンゼルスから帰国する気持ちにはどうしてもなれなかった。

 ニューヨークを去る前日、私は再びこの地を訪れることにした。あのときにこの場所で感じたことが、私の中でしだいにはっきりしはじめていた。この9月11日のセレモニーに向けて着々と準備が進む中で、ビンラビィンの死亡により、このことはすでに終わったこととして、この事件そのものに蓋をされてしまうことへの悲しみのようにも思えた。

あの御巣鷹山で眠るに眠れず成仏できずにいる犠牲者たちの無言の訴えを風がはこんだように、今この地で亡くなられた多くの犠牲者の霊が何かを訴えているようで、どうしてもそのままこの地を立ち去る気持ちになれなかった。

あの消防士たちのレリーフのある場所の柱に、天国にいるであろう犠牲者たちへ書いた絵葉書を結びつけた。「いつも、一握りの権力者のために日常の生活とご家族の幸せを奪われ、犠牲になるのは普通の市民。亡くなられた方々のことを私も、日本の人々も決して忘れません。」という趣旨のことを記した。



この日訪れたときもやはりあのときと同じ、身震いがした。ただ、このことで私の気持ちは少し静まった。そして、この前訪れたときには気づかなかった工事現場の通路のようなところにある有料の事故の模様を展示した仮設の記念所のようなのがあることに気づいた。

入ってみると、事故の再現フィルムや遺品などが並べられていた。犠牲者へのはがきなども用意されていたから、ここで書けば保存されるのだろうが、私のくくりつけた所では、何か置いても撤去されるとの通告がされていたので、すぐに取り除かれたかもしれない。

有料でしか犠牲者へのメッセージが伝えられないのがアメリカらしかったが、私はそれだけはいやだと思った。この人達は、死して有名になろうなどとは決して思わなかっただろう。

それよりもできるだけ自分の人生を、子や親や恋人や夫婦で過ごしたかっただろうと思った。日常の平凡ではあるが悲しいことも楽しいことも経験しながら、もっと生きたかっただろうと思った。

どんな盛大なセレモニーよりも、弔辞よりも、真実を解明し、二度とこのような悲劇を繰り返さないで欲しいと願っているはずだ。これら故人の思いをかなえるためにも、事故原因の究明が残された者にとってできることであると思わずにはいられなかった。

 今年の9月11日、装いを新たにしたフリーダムタワーは、慰霊の地として生まれ変わるはずである。厳かに盛大にセレモニーが執り行われる。そして、この事故が過去の出来事として、アメリカは動き始める。

しかし、この地で亡くなられた方々は、私に「これで終わりにしないで、真相を伝えて」と言っているようだった。私は私なりにこれからも調べていくことを約束して、この地を去った。

そして、8月12日御巣鷹山へ行った。慰霊登山では、あの時私が感じたようなすすり泣きは感じられなかった。何かが、亡くなられた方々の死してなお死ねずにいるあの必死の訴えが、少しずつ真実に近づきつつあるように思えた。あの眠れずにいる多くの霊がやっと眠れるようになったように思えた。あとすこしでたどり着けるようにも思えた。

 初めて「すげの沢」へ行った。こんなにも墓標があるとは。涼しく吹き抜ける風に、この沢のあたりに事故後多くの生存者がいたこともわかるような気がした。

慰霊祭も中継して、どんなに死後弔われても、あの事故を境に人生が変えられた人達がいる、真相究明以外に弔う道はないとはっきり思えた。

 アメリカでは、この9・11以降、愛国法の制定などで、自由に発言することが難しくなってきているように思える。市民メディアへのインタビューでも、このことには敢えてふれようとしないところが感じられた。

このまま終わっていくのだろうか?私に訴えたあの思いを無駄にしたくはないとの気持ちを新たにした。そして、できればまた9月11日には、この地を訪れたいと思ったが、とてもそれだけの経済的ゆとりはない。しかし、あの通り過ぎようとした私に必死に訴えかけてきた眠れずにいる人達へ、私の思いをいつか伝えたいと思っている。

             (つづく)

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