無罪と確信しながら死刑判決をした裁判官が語る冤罪袴田事件

  • 2010/12/09(木) 20:02:59

 鈴木宗男議員や小沢一郎議員が罪人に仕立てられ政治生命を断たれようとしていることを調べていくうちに、これほどの冤罪事件があるのかという事実に驚いた。一般市民が巻き込まれ、なかにはそのまま死刑にされてしまった人もいるのではないだろうか?ここに挙げる袴田事件について、恥ずかしいことだが私はそのような事件があるということも知らなかった。



 


高知白バイ事件についても知らなかった。それほど司法の場での判決は絶対であり、これほど腐敗しているなどということは思いもよらなかった。

無実の人を検察・弁護士・裁判所で調書をでっちあげて罪人にするなどとは考えられないことだった。それが事実であるとわかったとき、信頼すべき所が悪人のレッテルを貼って無理やり罪人にする恐ろしい所だと知ったとき、これが当事者だけでなくこれから冤罪に巻き込まれても救いを求められない窮地に追いやられる可能性があるとわかったとき、私達市民たちは立ち上がらざるを得なかった。

 袴田事件は、袴田被告を救おうと救済活動をする過程で、2007年2月、一審静岡地裁で死刑判決に関わった元裁判官熊本典道(判決言渡しの7か月後に辞職)が「彼は無罪だと確信したが裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断、合議の結果1対2で死刑判決が決まった(下級審は形式上は全会一致)。しかも判決文執筆の当番は慣例により自分だった」と告白。袴田の姉に謝罪し再審請求支援を表明し、2007年6月25日、元裁判官熊本は、袴田の再審を求める上申書を最高裁に提出。超党派で支援しようという動きがひろがっている。

「拷問王」と言われ次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E6%9E%97%E9%BA%BB%E9%9B%84警部人脈の関与があったとされている。紅林麻雄が、幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件の被疑者を拷問で責め落として、自白を取ったそのすべてが冤罪であったと後にわかった。

12・5の三井環さんの集会のときの「救う会」の門間幸枝さんの訴えに答えるべく、この事件についてできるだけ多くの人に知ってもらい、袴田さん無罪判決を勝ち取るために、市民として、できるかぎりのことをしていきたいと思っている。


ウイキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

袴田事件(はかまだじけん)は、1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定した袴田 巖(はかまだ いわお、1936年3月10日-)死刑囚が冤罪を訴え再審を請求している事件である。
   

裁判の主な争点
  [編集]
自白は強要されたものか。

任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と同日に取られ、唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。

信用性に関する争点
: 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
凶器とされている刳り小刀で犯行は可能か。
逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
犯行着衣とされた「5点の衣類」は犯人である証拠か、警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」、検察は「1年間近く、味噌づけになってサイズが縮んだ」と主張している。

取調べ・拷問
[編集]
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。

睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。

これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E6%9E%97%E9%BA%BB%E9%9B%84警部人脈の関与があったとされている。

支援の動き
(抜粋)
2007年2月、一審静岡地裁で死刑判決に関わった元裁判官熊本典道(判決言渡しの7か月後に辞職)が「彼は無罪だと確信したが裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断、合議の結果1対2で死刑判決が決まった(下級審は形式上は全会一致)。しかも判決文執筆の当番は慣例により自分だった」と告白。袴田の姉に謝罪し再審請求支援を表明する。

袴田巌死刑囚救援議員連盟
[編集]
国会では、衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」が発足し、2010年4月20日に設立総会を開いた[1]。民主党、自民党、公明党、国民新党、社会民主党、新党大地などに所属する議員が発起人となり、総勢57名の超党派議員が参加[2]、代表には牧野聖修・民主党衆院議員(静岡1区)が就任した。同議員連盟発足について牧野は「足利事件で無罪が明らかになるなど冤罪への関心が高まっており、袴田さんの冤罪を信じる議員が集まった。

今後は法務大臣に死刑執行の停止や一刻も早い再審の開始を求めたい」と述べている[3]。同議員連盟は、設立総会において、冤罪の可能性とともに、死刑執行への恐怖が長期間続いたため袴田死刑囚は精神が不安定になっていることなどを指摘し、今後、法務大臣の職権による死刑執行の停止や、医療などの処遇改善を求めることを決めている[4]。


同議員連盟代表の牧野聖修は、強い拘禁反応によって心身喪失状態にある袴田に対し刑事訴訟法479条(死刑執行の停止: 死刑を言い渡されたものが心神喪失にあるときは、法務大臣に命令によって執行を停止することができる)に基づき、法務大臣に対し職務権限による死刑の停止と、速やかに適切な治療を求めるとともに、再審の道を開くべく追求することを表明している[5]。また、担当弁護士は、国際法規に照らしても拘禁反応や糖尿病を放置している状況は人権侵害だと述べている[2]。

また同議員連盟で、弁護団から、死刑確定後30年近く経過している現状は拷問禁止条例などに違反している疑いがあるため、日弁連に対し人権救済の申し立てを行なった、などの報告があった[5]。


 
「裁判官の良心」

http://kumamoto.yoka-yoka.jp/




「私は無罪を確信しながら死刑判決を言い渡した。。。」

39年前の過ちを自ら告白した元エリート判事の転落と再生

〜熊本典道のメッセージ〜

僕のことなんかどうでもいいんです

袴田君が1日も早く自由になってくれることが大切なんです

それだでです。




冤罪(えんざい)   無実の死刑囚、元プロボクサー


袴田巌さんを救う会

http://www.h3.dion.ne.jp/~hakamada/jiken.html

袴田事件とは?


 その夜の出来事

 死体は四体。石油のような油をかけられ、火をつけられたので、四体とも黒焦げだった。もちろん家屋も焼失した。

 火災が起きたのは、一九六六年六月三〇日の午前二時少し前である。場所は静岡県清水市横砂。惨劇は、味噌製造会社専務の居宅兼事務所で起きた。殺されたのは、専務(41)の他、妻(38)、次女(17)、長男(14)の四人。長女は、別棟に寝ていたので助かった。                      

 メッタ刺しにされた死体の刺し傷はあまりに多く、正確な数はわからない。四人の傷の総計は、少なくとも四五ヵ所。警察は、焼け跡から発見されたクリ小刀一本を凶器としたが、先端がわずかに折れていただけだった。刃こぼれもしていない。また、警察の調査によると、約八万円のカネが奪われたというが、橋本家にあった多額の金品は、手つかずに残されていた。

 アリバイ

 「こがね味噌」の従業員だった袴田巌さん(30)は、仕事が終って夕食の後、橋本家に近接した工場の二階にある寮の自室に帰った。同僚と将棋をさした後、テレビドラマを見た。午後一一時過ぎ、パジャマに着替え、消灯し寝た。

 消防車のサイレンの音で目がさめた。グッスリ寝こんでいたので、しばらくの間ウトウトした。「店が火事だ」という隣の部屋にいた同僚の叫び声に飛び起き、パジャマのまま自室を出て駆け降りた。気持ちが動転していたが、とにかく水をかけなければと思い、工場の中でバケツを探した。同僚が「消化器、消化器」と大声で駆けてきたので、一緒に探したが見つからない。やっと消火栓に取り付けるホースを見つけ、同僚たちとホースの束を持って、事務室の前にある消火栓に走った。土蔵の後ろにある物干台に上り、屋根によじのぼった。足をすべらして落ちた時、ブリキか何かで左手の中指に怪我をした。火事は二〇分程で鎮火した。消火作業中に水をかけられズブ濡れになった。

  その後自室に戻った袴田さんは、とりあえず中指の怪我の出血を止めるために、手ぬぐいを引き裂いて縛った。消毒をしなかったので、後に傷跡が化膿して医者に見てもらうことになった。

 これが事件当夜の袴田さんの取った行動のすべてである。アリバイは完ぺきで、袴田さんと事件との関係は皆無だった。

 自白の強制

 八月一八日、袴田巌さんが逮捕された。彼は一九日間、無実を主張し続けたが、連日の厳しい取り調べに、モウロウとした状態になり、ついに九月六日、警察の筋書き通りの犯行を自供させられた。その内容は、おおよそ次のようなものであった。

 六月三〇日の午前一時過ぎ、クリ小刀をパジャマのズボンのヒモに落としざしにして、寮の自室を出た。隣家の楓の木から専務宅の倉庫の屋根に移り、雨樋(あまどい)を伝って中庭に降り、侵入した。家人に発見され、専務を殴り倒し、専務以下四人をクリ小刀で殺害、現金を強奪した。その後死体に混合油を振りかけ、マッチで火をつけて逃げたというのである。罪名は「住居侵入、強盗殺人、放火」だった。

 しかし、この自白を裏付ける物的証拠は何もなかった。警察は、袴田さんを容疑者ときめつける物的証拠を何も発見していなかったのである。元プロボクサーだから「やりかねない」という先入観が、捜査官の頭を支配したらしい。警察の内部文書にも、こう書いてある。

 「本件は、被告人の自白を得なければ、真相は握が困難な事件であった」。

 則ち話は逆なのである。警察は、袴田さんに嫌疑をかけ、逮捕する充分な証拠は何一つ発見していなかったのである。

 こうなれば捜査官は、無理やり袴田さんの「自白」をとる以外に手はなかった。一日の取り調べ時間は、平均一二時間。最高は、実に一七時間にのぼった。袴田犯人説は、警察の拷問が作り出した虚構であることは明白だった。

 迷走判決

 一九六六年一二月一〇日、静岡地裁で公判が始まった。袴田さんは、公判開始から終始、無実を主張した。しかし六八年九月一一日に出された判決は死刑だった。最高裁でも上告棄却され、一九八〇年一一月一九日、死刑が確定した。

 一審判決文は、死刑判決を出す根拠にとぼしい、およそ日本語としても支離滅裂の文章だった。提出された袴田さんの供述調書四五通のうち、証拠として採用されたのは、たった一通だけである。しかし他の四四通の内容と異なった特別の内容があったわけではない。即ちこの一通の自白調書を採用した論理的根拠は何もなかった。

 判決文では、専務と格闘の具体的状況は不明。妻、二女、長男を刺殺した順序も不明というていたらくだった。また、最初検察側は、犯行時はパジャマを着用していたとしていたが、殆ど血痕がなかった。公判が袋小路に迷い込み始めた六七年八月三一日、突然、工場内の味噌タンクから発見されたということで、大量の血痕が付着した五点の衣類が証拠として提出された。ところが、味噌タンクに入れた際の具体的状況及び日時も判決文によれば不明というのである。具体的には、犯行の実体については、分からぬ一点ばりなのである。

 このような小学生の作文以下の判決文の矛盾を指摘することは簡単である。然し、再審請求棄却決定の文章の中でも一言もふれていない、全く反論出来なかった「五点の衣類」についてだけ述べることにする。なぜなら、袴田さんを犯人として立証できる唯一の物的証拠は、まさにこの「五点の衣類」だけだからである。

 血染めの五点の衣類とは、スポーツシャツ、ズボン、白半袖シャツ、白ステテコ、ブリーフである。血痕の付着状況を血液型で見ると、スポーツシャツはとA、ズボンはA、その下のシャツはBとA、ステテコはA、ブリーフはBとAである。専務の血液型はA型で、万べんなく付着している。妻はB型で、シャツとブリーフだけ、長男は型だが、これはシャツだけである。二女の血液型はO型だが、一〇カ所も刺されているのに全くついていない。血痕付着の整合性があるのは専務だけである。妻のB型血液は、ズボン、スポーツシャツ、ステテコを飛びこえて、シャツとブリーフだけについている。長男のも不自然である。血液の付着状況は経験則に明らかに反しているのである。

 凶器とされたクリ小刀の問題。

 この問題に入る前に、二〇〇〇年一二月三〇日から三一日にかけての深夜、東京世田谷区上祖師谷で起きた、一家四人全員が惨殺された事件を想起してみよう。

 被害者が受けた傷は、それぞれ十数カ所。合計三十数カ所であった。凶器は文化包丁と柳刃包丁である。文化包丁は先端が折れ曲っていた。柳刃包丁は先端が三つに折れていたとのことである。犯人の手についていたと思われる血痕もおびただしくついていた。

 袴田さんは右手にクリ小刀の柄をにぎり、四四回も四人の被害者を突き刺したことになっている。しかし彼の手の平には、まったく傷がついていなかった。袴田事件の判決文によっても、袴田さんの右手の甲と右上腕部に小さい傷があっただけである。もし袴田さんの犯行であるならば、四四回に及ぶ刺突で、袴田さんの手の平も甲も血まみれになったにちがいない。クリ小刀には鍔(つば)がついていないからである。しかし彼の手の平には切傷がついていなかった。

 第二に、クリ小刀は、先端がわずか一センチ程度折れた程度で、あとは原形をとどめたままである。刃こぼれもない。

 また検察調書で、袴田さんが逃亡したとされている裏戸の問題について、「救う会」の木下信男氏が『裁判官の犯罪「冤罪」』で、詳細で正確な反論を行っている。

 供述調書によれば、袴田さんは、裏戸にかかっていたカンヌキを右によせ、扉の下にあった石や留め金をはずしただけで、上の留め金ははずさずに、下の方を体の出入りできる位開け、無理な姿勢で外に出たことになっている。

 しかし第一審の法廷で、消火に駆けつけた住民の一人は、裏戸は「押しても引いても、びくともしなかった」と証言している。そのため消防士らが体当りで裏戸を押し開けた。そのときカンヌキは二つに折れたのであると木下氏は指摘している。即ちカンヌキはかかっていたのである。そうであるならば、裏戸脱出後、どうやってはずしたカンヌキを外からかけなおすことができたのか。

 このように裁判に提出された証拠群は極めて不自然で、作為のあとが色濃く出ている。何故このようなことが起きたのか。公判の行詰まりにあわてた警察の方で、これらの「証拠」をネツ造したとしか考えようがない。しかし棄却決定でもこれらの問題には全く触れていない。この点こそ袴田無罪を証明する核心的な証拠なのにである。

 こういう殺しの証明法でいけば、誰でも犯人にさせられる可能性がある。お前が犯人だと警察官、検察官がきめつければ、それで終りである。

 支  援

 袴田巌さんの弁護には、日弁連袴田事件弁護団が当っている。また一九九九年八月に病没した安倍治夫弁護士は独自の立場から、私たち「救う会」と共に弁護活動を行って来た。安倍弁護士は、吉田ガンクツ王事件、免田事件等の冤罪事件に力を注いだことで名を知られており、五点の衣類についても、早くから再審請求理由補充書でその矛盾を指摘して来た。

 一九九四年八月、再審請求から一三年目に静岡地裁は不当にも請求を棄却。東京高裁での即時抗告審に対しても、安倍弁護士はさらに詳細にこの矛盾を指摘した。また日弁連弁護団は「五点の衣類」の血液についてDNA鑑定を申請したが、二〇〇〇年七月鑑定不能との結果が出た。二〇〇四年八月二七日、東京高裁第二刑事部(安廣文夫裁判長)は、即時抗告を門前払い同様に棄却。二〇〇八年三月二四日、最高裁第二小法廷(今井功、津野修、中川了滋、古田佑紀各裁判官)も特別抗告を棄却したため、四月二五日、弁護団は静岡地裁に第二次再審請求を申し立てた。

 東京拘置所にいる袴田巌さんは、十数年前から精神を病み、家族、支援者との面会もほとんど出来ない状態が続いた。「救う会」と有志の弁護士は、袴田さんを外部の医者に見せることなどを求めて、三回にわたり人身保護請求を起したが、裁判所は請求を棄却した。

 二〇〇三年三月には、保坂展人衆議院議員の尽力で一二年ぶりにお姉さん、弁護士の面会が実現した。その後また面会できなくなったが、三年八ヶ月後の二〇〇六年一一月からは、定期的に面会している。しかし、拘禁性精神病のため妄想の世界に住んでいるようである。


 「救う会」は、再審を求める要請ハガキを首相、法務大臣、東京高裁に送る活動を展開、二〇〇四年五月には東京多摩地域のタブロイド紙アサヒタウンズに一面意見広告を掲載した。九月には、伊NGO・聖エジディオ共同体主催の「第回「世界宗教者・平和のための祈りの集い2004」(イタリア・ミラノ)「死刑廃止分科会」に門間幸枝副代表を派遣。会場で袴田事件の英文パンフレットを配布、国際署名を集めた。現在は、司法関連の公開学習会を開いてえん罪への理解を深めるとともに、袴田巌さんの再審を求める請願書(署名)を集めている。二〇〇七年六月には、署名(国際署名を含む)と共に、熊本典道元静岡地裁判事の陳述書を添えた上申書を最高裁に提出した。

 最後に袴田巌さんが書いた獄中書簡を紹介する。

 「……殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日二人一組になり三人一組のときもあった。午前、午後、晩から一一時、引続いて午前二時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。……息子よ、……必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ。」(一九八三年二月八日)

                「袴田巌さんを救う会」副代表 小松良郎
当時のみそ会社の風呂敷

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

この記事に対するトラックバック

この記事のトラックバックURL

日本の夜明けのために

コメントありがとうございます。「裁判所の良識というものがガラガラと大音響をたてながら崩壊している様子を眼前にしています。」からこそ市民が行動しはじめたのです。私は、ただ自分のできることをしているだけで、隊列を組んでいるというようなことではないのですが、無知から脱して、諸問題について、書いて考えて同じ思いの仲間がいることに励まされて、そんな市民力がやがて大きな力となる日が来ることを信じて、これからも書き続けていきます。

心からの感謝を

和順亭の主さまいつも熊木さまのブログを拝見して勇気づけられている中年と老年の境にいる男性です。今となって、私が何気なく思っていた裁判所の良識というものがガラガラと大音響をたてながら崩壊している様子を眼前にしています。このままではいけない、なんとか国民の主権者たる地位を保全しなくてはならない、日本を覆う悪(やはり悪としか形容できない)を退治しなくてはならない、との思いが日ごとに募って参ります。これからは熊木さまの隊列の一員として加えさせていただき日本の本当の夜明けのために微力を尽くしたいと願っております。

この記事にコメントする

管理者にだけ表示を許可する