ニューヨークから再びロサンゼルス、帰国へ

  • 2011/07/27(水) 04:46:31

ニューヨークから再びロサンゼルスへ。
フェニックスでの乗り継ぎに遅れたことがトラウマとなり、この移動日の前日は眠れなかった。







ニューヨークからフィラデルフィアで乗り継ぎ、ロサンゼルスに向かう乗り継ぎ。直行便はあるが高いので、の乗り継ぎ便にする。ニューヨークからロサンゼルスへフィラデルフィァ経由で行く。ニューヨークからフィラデルフィァまでは1時間かからないでいくが、プロペラ機のような小さな飛行機。フィラデルフィァからロサンゼルスまでは、5時間以上かかる。この日はさらにトラブルで6時間以上かかった。



フィラデルフィァでの乗り継ぎ時間は一時間半で、しかも違うターミナル。同じ飛行機会社(USALLWAYS)をだが、移動はターミナル間をシャトルバスが飛行機の間をぬって進む。飛行機を間近に見た。念には念を入れ、場所の確認をしながらゲートへ向かい、無事搭乗。飛行機に乗るまで、何だかまた乗り遅れるのではとドキドキしっ放しだった。



無事乗ると安堵して眠気が襲う。うとうとして、ふと眼がさめると飛行機は地上にいる。着いたにしては早すぎると思ったら、まだ離陸していなかった。食事を入れた箱がないということで、一時間近く遅れて離陸した。子供連れは、子供が泣いて大変だ。6時間以上かかるので、本当にアメリカは広いと思う。
移動だけで一日終わってしまう。

アメリカへ向かうときと帰るときのツイッターの内容がほぼ同じって、日本の政治は停滞している。復興できるのだろうか?

この旅行を通して、やはり国際交流ということから言えば、どこへ行っても、どんなに機械化されても、人間がいなければ処理できないことがあるということがわかった。飛行機のチケットも機械処理も、言葉が違えば対応できない。やはり、その場所に聞ける人がいて、初めてスムーズに処理できる。交通システムは国によって違うから、それを理解することは困難を極める。

異国での機械だけの対応は特に困難だ。航空券や電車のチケットの購入など、慣れた職員が対応したほうが、よっぽどスムーズだということがわかった。

 日本からロサンゼルスに着いて過ごした10日ほどは、レンタカーを使い、ロサンゼルスを回ったが、ホテル代と同じぐらい費用がかかるので、バスを利用することにした。

アメリカというのは、何もかも車社会になっている。そのため、バスや電車などの発達が著しく遅れているように思う。ニューヨークでは、電車の乗り継ぎで待たされ、何番線のホームに到着するかも、直前になるまで決まらない。土・日曜日は工事のため、地下鉄は電車が動いていないだけでなく、それを知らせる貼紙すらない駅もある。何十分も待たされ、しびれを切らしてほかの駅に行って、はじめて運休だと知ることもある。

 ロサンゼルスでバスを利用してみて、バスの乗り継ぐなどというのは、どれほど待たされるか。アメリカは、車なくしてはとても不便な国だ。ニューヨークなどは、交通渋滞で、市内観光バスとタクシーがあふれ、とてもレンタカーなどでは回れない。交通渋滞もいつものこと。信号など無視をするかのように渡る人と車で、友達は戦後の混乱を見ているようだと言った。

バス代の徴収の仕方なども、日本のようにスムーズにできず、バス停に止まるたびに時間を浪費する。駅の改札や発券機など、日本のほうがよっぽど進んでいるし、時間も正確。これだけ待たせるというのは、バスや電車利用者は、まだ自家用車より所得が低い者が乗るという位置付けがあるからだ。飛行機の搭乗も、ファーストクラスは待たされない。低く位置づけされた者は、待たされても我慢しなければならない。

友人に付いて、池袋の職安(サンシャイン)に行ったことを思い出す。失業して途方に暮れている人を何時間でも待たせる。文句を言ったら、仕事をもらえないのでは?など、弱い立場に置かれた者は、ひたすら耐える。職員を増やすとか改善しようとしないで、ひたすら耐えてる者の気持ちも察せず、「うちはいつもこんななんで」と言う。

仕事を失っている者の気持ちなんて考えることもないのだろう。ここで働く職員は、みな公務員で保障されているから。夕方、5時ぐらいに行くと、自分の仕事が切り上げられないから、横柄な態度をとられることもある。職安がどこもかといえばこれも場所によって違うこともわかった。

 今までは、日本の何年か先をアメリカは行っていた。しかし、今のアメリカと日本は、ほぼ同じ。トイレなど、アメリカではウオッシュレットなど見かけなかった。トイレは、日本のほうがよっぽど進んでいるし、そろそろ逆転していくのかもしれない。

バスや電車が不便でも、自転車やバイクはあまり見かけない。自転車や、日本で最近見かける電動自転車などあれば、車を持たぬ人はどれだけ便利なのにと思うのだが。

 日本を歩いているのとアメリカの生活は何ら変わりない。ただ、レストランでの食事は、税金やチップがかかるため、どうしてもファーストフードの利用となる。これが続くとバリエーションに富んだ日本のレストランが懐かしくなる。切符を買うのにも、レストランで注文するのにも、戸惑うことばかりだったが、出会ったアメリカの人達は、とても親切だった。特に、黒人は親切だった。

メキシコやスペインからの移民が多く、スパニッシュやメキシカンの英語は聞き取れないことがずいぶんあった。また、地域によっては、英語も通じないところがあった。

黒人と白人は、見かける限り同等で、仕事など下働きはスペインやメキシコからの移民が引き受けていることが多かった。

 再び来たロサンゼルスでは、バスを利用して日本へ帰るお土産を買う日々だった。今までにぎわっていたショッピングモールが衰退し、別の場所に新しくできたショッピングモールがにぎわっていたりと、場所によってめまぐるしく変わっていた。

パロスバーデスの植物園にも行った。

ここだけは、入園料は現金でカードで払えず、持っていたUSドルも足りず、車でないためとてもATMに行くのも無理と言われ、どうしようかと思っていたら、日本からの観光客に配慮してか無料で入れてくれるという。閉園まで一時間ぐらいだったということもあってのことか、途方に暮れていた私達はその厚意に甘えて入れてもらうことにした。

暑いのと平日ということもあり、あまり入園者はいなかった。

園内はとても広くて、ほとんど自然のままだった。

入ってすぐのところに日本庭園があった。


バラの花が咲いていた。


熱帯植物が生い茂っていた。


水辺に かもが。

リスも出てきて。


リスがこちらを伺いながら。











いよいよ帰国。搭乗を待っている間、飛行機をパチリ!






 29日の午後4時頃、帰国の途に着いたが、成田に着いたのは30日の午後7時近く。実際に乗っているのは、9時間ほどだったが、途中日付変更線を通り、何日だか何時だかわからなくなった。

行きのシンガポール航空での機内食で、私だけが周りが食べ終わる頃になっても食事が来ず、やっと来たと思ったら、残り物の寄せ集めのような食事で、しかもメニューにあるのに、何品か足りず、出るはずのデザートもなく、屈辱で食べる気にもならなかったことがあり、帰りに乗るのも気が重かったが、シンガポール航空の日本人スチュワーデスが担当だったこともあって、細やかな心遣いに、海外で働く日本人の活躍を願わずにはいられなかった。

日本人の経営者の店は、日本人オーナーがいれば、従業員がスパニッシュでもメキシカンでも、日本のお店と同じようなテキパキとした動きになる。それほど日本のサービス精神は世界に誇れるものだと思った。

そして、アメリカで利用したUSエアウエィズの乗務員は、スチュワーデスなどみなかなりのお年寄りだったり、男性乗務員がスチュワーデスと同じ仕事をしていたりと、それまでの乗務員の概念を覆された。




 しかし、ベテランの応対は安心ができ、アメリカはリストラの国と思っていたのが、どこへいっても年をとった女性なども堂々と仕事をしていた。そういう職場は、とても安定しており、リストラがないのか、あっても経験がキャリアとして生かされている。リストラされたら行き場のない日本とは大違いだった。

成田に着いて、思ったより涼しかったのにはびっくりした。我が家で眠りについたと思ったら、寝ている間の地震に、これが日本に帰ったということだと思った。

乗ってきたシンガポール航空

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ニューヨーク 7 ニューアーク フェニックス 観光バス ロックフェラーセンター ユダヤ博物館

  • 2011/07/25(月) 17:42:36

 バンクーバーから、またフェニックスで飛行機を乗り継ぎ、ニューヨークへ。フェニックスからは、時間がかかりとても退屈した。
途中車窓から見た雪山




ニューヨークは、とても暑い。特に、タイムズスクエアーの辺りは、人で夜遅くまでごった返し、歌舞伎町にいるようだった。

東京と同じぐらい暑い。いや、もっと暑いかもしれない。

ニューヨーク空港への着陸便は値段が高く、ニューアーク空港(ニュージャージ州だけどJFK空港よりニューヨークには近い)への着陸便は安い。飛行機は、ニューアークへの着陸便とし、ホテルも比較的安い空港近くをとった。

ニューアークの町は、治安が悪いからホテルを取るなら、駅から送迎のあるホテルで、あまりニューアークは歩かないほうがいいということもブログなどには書かれていた。

空港のターミナルを巡る無料モノレールとホテルの送迎バスを利用し、町へは出ずに、ニューヨークへ行き来することにした。

着いた頃は、ニューヨークの交通事情もわからず、教えられるままに利用した列車(アムトラック)が往復で3千円ほどかかり、これではニューヨークにホテルをとるのとそれほど変わらないと思った。
アムトラック

しかし、そのうちに隣りのニューアークペンまで列車で一駅行き、地下鉄を利用すると安く行くことができることに気づいた。

 日本から異国の地へ行き、駅で切符を買うのがこれほど大変とは思わなかった。特に、アメリカは何でもカードで払う。切符の販売機も日本ほどなく、もたもたしていると、すぐに行列ができる。

案内表示もあまりなく、販売機の表示も理解しにくい。聞こうにも誰もいなければ、どうしょうもない。鉄道は、日本のほうがよっぽど進んでいる。

車内表示や放送がなければ、本当に困る。地下鉄も土・日は工事日となっているようで、駅で30分以上待ってから、工事のためこの駅を通るのが運休になることを隣りの駅の表示で知った。

待っていた駅にはどこにもそのことを知らせる表示もない。 

 暑さに疲れ、駅で乗り換えのたびに何十分も待たされ、おまけに駅のホームはうだるような暑さで疲れ、これといったこともしてないのにあっという間に、一日が終わってしまう。こんなことの繰り返しで、ホテルの帰るには夜の11から12時近く。ぐったりして、翌日は出かけるのは昼過ぎとなる。

 どこへどう行くのか。切符はどうすればいいのか?こんなことに疲れる日が続く。

 ニューヨークに着いた当初は、まずニューヨークを知るということで、市内を巡る観光をすることにした。

ニューヨークには、市内観光用の赤バスと青バスなどがある。
とりあえず、ニューヨークを知るためにレッドバスに乗る。
          
市内観光をすることにした。

ロックフェラーセンターで。


直射日光があたり、暑くていられるものではない。しかも、一階はエアコンも効かず、蒸し風呂状態。
サウナにはいっているようで、いられるような状態ではない。

誰もが初日は2階からの展望を楽しもうとする。しかし、このうだるような暑さの中、具合の悪くなる女性が現れた。

三日間、ニューヨークのいくつかのコースが乗り放題となるため、チケットを買ったからには、この三日でこのバスを使って観光しようと誰もが思う。
初日は、展望のよい2階席を楽しんだものの、あまりの暑さに、二日目はエアコンの効いた一階席に座り、心地よく眺めることにした。

しかし、それもこのときまで。なぜかクーラーの効いたバスはこのときだけだった。それからは、どのバスに乗っても暑く、上は直射日光、下の席はサウナ状態。逃げ場がない。チケットを買った黒人のお兄ちゃんに 文句を言うと、次のバスを待てばいいと言う。しかし、どのバスも冷房は効かず、熱中症になるのではないかと思った。

バス停で乗り込もうとするも、下の席はとても暑くていられず、窓も開けられず、みな上の席へ行こうとする。上は、満席となり、乗れない乗客が続出た。しかし、考えてみるに、このバス二階建てながら一階は空の状態で運行している。

一階にもアコンを効かせれば、倍の乗客が乗り込めるのにと思った。また、直射日光が当たり、気分が悪くなっても、一階席で休むことが出来る。日本では、熱中症対策が叫ばれていて、それにならないような対策をとることも、企業の責任が伴う。


地下鉄内を、楽器を演奏したり歌をうたったりしてチップをもらう人たちがいた。


ニューヨークでは、地下鉄の駅など公共機関については、日本に比べ、ずいぶん遅れているように思った。






市内観光バスで夜景を見る。









地下鉄内の事故



エアートレインの事故




そして、何よりわかったことは、アメリカはカード社会だということだ。
サムプライムローンでも明らかだが、コインパーキングから電車の切符を買うのまで、カードでの支払いが当然となる。

そのため、カードでどれぐらい払っているのかということがわからず、財政破綻につながるということが起きてくる。日本のように、高額の物は別として、現金での支払いがほとんどなら、お財布の中にどれだけお金があるのかがわかり、買い控えすることもできるが、アメリカのようにカードで何もかも買うとなると足りなければ借りてでも払うようになる。

アメリカ政府の財政破綻も何だか同じような気がする。

日本や中国が買っているアメリカの国債はどうなるのか?アメリカが財政破綻したとき、日本はどうなるのかと思わずにはいられなかった。

ニューヨークの町は、混乱の町だった。あふれる人。車。信号などおかまいなしに渡る人たち。

とても、レンタカーなどで回れるところではない。しかも、暑い。市内観光もだが、自由の女神も乗船するのに一時間待ち。女神の中に入るのは、さらに同じぐらいかかる。結局、自由の女神像のある島の周りを遊覧することしかできなかった。


遊覧船を待っているときに見たリス。暑くてペタリ!


市民メディアを知るために、インディペンデントメディアセンターを訪ね、インタビューもした。さらに、紹介された市民テレビのMNNテレビは訪ねたが、職員はいなくてインタビューすることはできなかった。もう何日かいれば可能だったろうが、次の滞在地へ移動する予定があるので、それもかなわなかった。
 
 ニューヨーク滞在中、日本食が食べたくなって、日本食のお店を訪ねた。
ロサンゼルスのようなリトル東京はなく、チャイナタウンやリトルイタリアなどがあった。

日本レストランがいくつかある通りがあり、ラーメンなども食べることができた。

お茶漬けや秋刀魚の塩焼き、お新香の盛り合わせなど、ニューヨークで食べることが出来るとは思わなかったが、何か久しぶりに食事らしい食事をした気になった。

アメリカでは、レストランは10%のタックス(税金)と15%のチップ(強制ではないが)がかかるので、レストランでの食事より、ハンバーガーショップやピザなどのファーストフードのお店に入ることが多くなる。

いつもパンやハンバーガーだけだと食事した気がせず、バリエーションに富んだ日本食が懐かしくなる。

たまには、お茶漬けとか蕎麦とかも食べたくなる。

アメリカの食事は量が多い。そのせいか太った人が多く、日本では太ったことを気にしているのが、アメリカでは気にならない。

それほど太った女性が堂々としている。

お店に入ってメニューを見ても、それが写真でもなければどんな料理なのか検討もつかないから、疲れる。周りを見て、「あれと同じ物を」と注文することにもなる。

日本を出て、わかることが多い。

日本にいると気づかずにいるが、日本語のない生活がどんなかが身にしみた。

日本の経営だったお店や企業が中国や韓国にかわり、日本食のレストランやお店に行っても日本語は聞かれず、いるのは中国人や韓国人の店員。

これほど日本語が懐かしくなるとは思わなかった。

このまま至る所から日本が消えていくことがしのびなかった。


ニューヨークは近代的なビルばかりと思っていたが、荘厳な重厚な建物が随分残っていた。


ウオール街のモルガンスタンレーのビルも、中国の企業が買い、安中石油と書かれた黄色い旗が翻っていた


日本食レストランに日本人向けに新聞が置かれていて、日本の祭りがあると知って行くことにした。

途中、乗り換え駅で デモのプラカードを持っている人たちと会い、戦争から帰ったらその不在が原因で離婚することになり、子供と会えない父親が訴訟を起こし、また、戦争反対の抗議活動をしているということだったので、その場へも行ってみた。




それから、日本の祭りをしているというブロードウェイ通りに行ったが、どこにもそれらしき団体は見当たらなかった。不審に思って訪ねると、クイーンズというところのブロードウェイだということで、それから地下鉄を乗り継ぎ、クイーンズまで行った。

他の国からも多くの屋台のような店が出ていて、その中に日本の祭りもあった。辿り着いたときは、すでに終わる頃で、それでもインタビューすることができた。

このニューヨークへ来た目的のひとつに、9・11のグランドゼロを訪ねることがあった。この地は、今年の9・11に向けて、メモリアルセンターの建設が進められていた。


9・11へ向けて着々と準備が進められている。
工事中で、崩壊したビルのあたりは、姿を変えつつあった。

この周りをまわったときに、なぜか鳥肌がたった。

何だかまだ成仏できない霊があたりをさまよっているようだった。

このメモリアルセンターの建設と、ビンラビィンの殺害により、何もかもが過去になり、蓋をされることを悲しんでいるようでもあった。何ということのできない思いを感じて、この日は帰った。しかし、それからこのことが気になった。このままニューヨークを離れることにひっかかりを覚えた。

そして、ニューヨークを離れる前日、再びこの地を訪れた。カナダのバンクーバーで日本に送ろうとした絵葉書を、この地で眠る人たちへ送ることにした。

メッセージを書き添え、切手も貼って、殉職した消防士のレリーフの慰霊のところの柱にその絵葉書を結びつけた。一握りの権力者おために犠牲になるのは、いつも市民で、人生も幸せも奪われていく。

亡くなった人たちに家族があれば、その不幸は家族にも及ぶ。アメリカへ経つ前の日本は、原発と放射能に揺れていた。しかし、アメリカで過ごす一ヶ月が終わろうとしている今も、ツイッターではまだ同じ内容が語られている。お盆までに仮設へ入ることすら無理だという。

9・11も原発も、そして原爆も、いつも泣いているのは、まじめに一生懸命生きてきた市民である。

戦争の20世紀から平和の21世紀となるはずが、今もまだ世界中で争いが続いていて、犠牲となる人たちがいる。

ワールドトレードセンターを訪れ、いつになってもこのことを忘れず、胸に刻みつづけることが、原因を徹底的に追及することが、これらの人たちの死に報いることとなるのだろう。新しいビルが建設され、追悼と言う言葉でうやむやにされることでは何もこれらの死は、報われないだろうと思った。

何か言葉にならぬ釈然とせぬ思いのまま、亡くなった方の遺品などのある所へ入った。多くの悲しみが私に乗りかかってきたようだった。

オサマビンラディンの死で終わったのか。


なお、以下のロックフェラーセンターやユダヤ博物館、セントラルパークについての動画や写真は下記のURLを参照してください。

http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-1369.html

ユダヤの博物館に入った。ロックフェラーセンター同様、入館に際し、厳重な荷物検査などがあった。ここを展示していて、いきなり警備員に大声で注意されたどうもハンドバックを肩から体の脇にかけていたのが気にいらぬようで、体の前に向けろといっているようだった。いきなりまくしたてられて、言葉もわからず、かといって注意される覚えもなく、大体のいっている意味は、「バックがぶつかるから前にしろ」と言われているようだった。

挙句の果てに、「あなたは英語ができないのか?」と言われた。
思わず、「私は日本人だ」と叫んでいた。注意されるような覚えがないだけに恐怖を覚えた。

また、この博物館では、いくつかの展示にひっかかりを感じた。

それは、監獄の中に幾重にも死体が積み上げられていて、その横にひとりだけ生きている人間が立っている。その死体と立っている人間は真っ白で、「ホロコースト」の何とかと題されていた。

しかも、それは未来を現すところに展示されていた。過去ならわかるが、なんでこれが未来なのだ。ホロコーストの悲劇を未来に起こすというのだろうか?あの真っ白の人間は、何を現すのか?白人への報復?

何だかひっかかりのある展示がいくつもあったが、この日はメディアセンターを訪ねる予定。時間に追われるようにこの博物館を跡にした。アメリカとの争いはいまだ終わることがないのだろうか?いくつもの疑問があった。
 
 日本を離れて、日本のことが今世界でどのようかがよくわかる。私が旅したカナダとアメリカの国旗と日本の国旗が仲よく並んでいて、うれしくなって思わず涙が出そうだった。このときほど、日本の国旗をなつかしく思ったことはなかった。




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バンクーバー

  • 2011/07/25(月) 17:41:06








バンクーバー空港で荷物がなくなって 



バンクーバー空港.ホテルが危険な所に隣接しているため空港で食事することに。そして、ホテルへ。







パトリシアホテル





バンクーバーは、こじんまりとしたとてもきれいな都市だった。シーバスで海を渡れば、つり橋や山頂で楽しむこともできる。





















アイランドというアウトレットのようなショッピングができるところもある。




























スタンレー公園からウオーターフロントまでの海辺の散歩も気持ちがいい。気候も涼しく、しのぎやすい。

































ロサンゼルスではあうことのなかった雨にもあった。とてもきれいな街並みのガスタウン。町中には、花があふれていた。























キャピラノ渓谷
















これはひっくり返って見ます。














キャピラノ渓谷からグラウス・マウンテンへ































キャピラノ渓谷・グラウス・マウンテンからの帰りのシーバス



バンクーバーのメインストリート







日本の物は何もかも揃っているお店コンビニヤもある。





空港からホテルへ行く途中親切に道を教えてくださった、ドネルというお店で働く高橋さんを訪ねて






バスの運転手さんなど、誰もが親切だった。切符売り場には、日本語の案内もあり、バンクーバーは、世界一住みやすい都市だというのもうなづけた。

バンクーバーに着いた翌日には、 行方不明になっていた荷物も無事ホテルへ届き、安心した。

旅には、ハプニングがつきものだから、それはそれで楽しもうと思っていたが、こんなにハプニング続きだと、もう何事もなく無事であることを願わずにはいられなくなる。

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