57 なぜこの時期に小沢捜査なのか?日本テレビとCIAからわかるロッキード事件真の主役は田中角栄ではなく中曽根康弘

  • 2010/02/21(日) 22:48:48

正力松太郎、暗号名はPODAM。CIAと読売新聞・日本テレビ正力松太郎も戦犯容疑で逮捕されていたが、簡単に釈放された裏に、米軍占領軍、あるいはCIAとの間に何らかの「取引」があったとみられている。

つまり、CIAが、「心理的占領政策」を推進していく上で、「役に立つ男」「使える男」として、「メディア王」としての正力松太郎に目をつけた。

 これと同じように、先日アメリカで公開された秘密文書から、ロッキード事件におけるアメリカ側の情報公開に関して、中曽根康弘の名前が明らかになり、中曽根が日本側高官リストから自分の名前の「揉み消し」を依頼したことが暴露され、一部で大騒ぎになっている。

この事実からもアメリカの情報工作は、政府やマスコミの中枢にまで及んでいることがわかり、ロッキード事件の主役は田中角栄ではなく中曽根康弘で、CIAと何らかの取引があったと見られている。

このことを、文藝評論家山崎行太郎の政治ブログ「毒蛇山荘日記」と 「永田町異聞 」からみていきたいと思う。



文藝評論家山崎行太郎の政治ブログ「毒蛇山荘日記」 
 
 

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100216/1266290664
<(続)『日本テレビとCIA…発掘... | アメリカは「戦犯・正力松太郎」...>

2010-02-16
CIAと読売新聞と日本テレビと・・・。




 言うまでもないことだが、僕は米国情報機関の工作活動一般を批判しているわけでも否定しているわけでもない。多かれ少なかれ、どの国でもやっていることだろう。

問題は、外国や敵国の工作機関の手先となり、日本国民を誤った方向へ先導すべく、つまり日本の国益をそこなうべくスパイ活動をさせられている、洗脳された日本人の存在である。


戦前の日本にも「陸軍中野学校」を初めとして多くの情報工作活動に従事する日本人がいたわけで、日本と戦火を交え、戦争に勝ち、日本を軍事的に占領したアメリカ軍が、占領中も、占領終了後も、公然とであれ、非公然とであれ、なんらかの情報工作活動をおこなったであろうことは容易に想像がつくが、問題は、誰が、あるいはどの組織が、あるいはまた、何を目的に活動していたかである。

たまたま、先日、アメリカで公開された秘密文書から、ロッキード事件におけるアメリカ側の情報公開に関して、中曽根康弘の名前が明らかになり、中曽根が日本側高官リストから自分の名前の「揉み消し」を依頼したことが暴露され、一部で大騒ぎになっているが、この事実からもアメリカの情報工作は、政府やマスコミの中枢にまで及んでいることがわかるであろう。
 


言い換えれば、中曽根は、おそらく「揉み消し」てもらう代わりに、同時に、CIAに何かを依頼され、命令されていたであろう。というわけで、中曽根のその後の政治活動も、もう一度、再検討する必要があるだろう。


戦後政治史上の最大の大事件であったロッキード事件の主役は、実は田中角栄ではなく中曽根康弘だったらしい
 
ことはひそかに囁かれてはいたが、証拠がなく、うやむやにされてきたわけだが、具体的な証拠となる文書が見つかったことで、明らかになったといっていいだろう。

同じことが、正力松太郎にもいえる。正力も戦犯容疑で逮捕されていたが、簡単に釈放されている。正力か釈放された裏に、米軍占領軍、あるいはCIAとの間に何らかの「取引」があったことは明らかであるろう。

つまり、CIAが、「心理的占領政策」を推進していく上で、「役に立つ男」「使える男」として、「メディア王」としての正力松太郎に目をつけたであろうことは容易に想像がつくというものだ。正力は、釈放後も公職追放になっていたが、こちらの方も、あっさり解除され、読売新聞社主に帰り咲いている
 (続)



永田町異聞
 
 

http://ameblo.jp/aratakyo/entry-10458517313.html

2010年02月14日(日)
ロッキード事件揉み消しを米政府に依頼した中曽根氏



ロッキード事件発覚当時、自民党幹事長だった中曽根康弘氏がジェームズ・ホジソン駐日米大使に「この問題をもみ消してほしい」と依頼していたことが、12日の朝日新聞の報道でわかった。



その旨を記したホジソン大使の国務省あて公電の写しが米国立公文書館のフォード大統領図書館に保管されていた。2008年8月、秘密指定が解除されたのにともなって発掘された資料のようだ。



この報道が注目されるのは、ロッキード事件の真の主役は田中角栄ではなく、中曽根康弘ではないかという説が、いまだにくすぶっているからだ。
 




ロッキード事件が発覚したのは1976年2月4日。米・上院の「チャーチ委員会」公聴会で、ロッキード社のコーチャン副社長らの証言により、自社の旅客機や軍事用航空機の売り込み工作が明るみに出た。



全日空にL-1011トライスターを、防衛庁に次期対潜哨戒機候補P-3Cオライオンを導入してもらうため、ロッキード社の秘密代理人、児玉誉士夫や国際興業社主、小佐野賢治らを通じて複数の日本政府高官に裏金を渡したという内容だった。



CIAのエージェントとして戦後日本政界で暗躍した児玉は工作資金として21億円をロッキード社から受け取っていた。小佐野に渡った資金を含めるとロッキード社が日本への売り込み工作として支出したのは30億円といわれる。



真っ先に疑われた政治家は中曽根幹事長だった。佐藤内閣で運輸大臣や防衛庁長官を歴任していたこと。児玉との関係が取りざたされていたことなどが背景にあった。


盟友の渡邊恒雄は児玉と親しかったことが知られている。また児玉の秘書、太刀川恒夫はかつて中曽根の書生であった。


中曽根幹事長は、ロッキード事件発覚当日の76年2月5日(日本時間)午後、「今の段階ではノーコメント」と語っている。


この事件に対し三木武夫首相は積極的な解明方針を示し、2月18日、米政府に高官名を含む資料提供を要請することを決めた。



ところが、朝日の記事によると、中曽根氏はその夜、米大使館関係者と接触し「もし高官名リストが公表されると日本の政治は大混乱になる」と語ったという。ホジソン大使の公電には「MOMIKESU」と、中曽根氏の使った言葉がそのまま記されていた。



「もみ消す」などという露骨な日本語を使っているところをみると、その米大使館関係者はよほど信頼できる相手だったのだろう。



その後、中曽根にとって旧知の仲のキッシンジャー国務長官がレビ司法長官に高官名の公表をしないように要請していることも、三木首相の意向とは別の次元で物事が進んでいたことをうかがわせる。



そして、米側が日本の検察に提供したのは、田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行ら三人の政治家逮捕につながる資料だけだった。
 




これをめぐり、日本のジャーナリズムでは、アメリカの謀略説が飛び交った。



70年代の米外交をリードしたキッシンジャー氏や、ロックフェラーなど米財界中枢が、日中国交正常化や日本独自の石油ルート開拓を進めた田中角栄に反感を抱いていたことがその根拠とされる。



田中角栄は丸紅ルートで5億円をロッキード社からもらい、全日空にトライスター機を導入するよう働きかけたという検察のストーリーで逮捕、起訴されたが、裁判の過程で疑問点が次々と浮上し、ほんとうに5億円の授受があったのかどうか深い霧に包まれたまま亡くなった。



一方、中曽根は、児玉との関わりが噂されたものの、検察から捜査の手が彼に伸びることはなかった。



その結果、3500億円もの国民の税金が投入された45機のP-3Cオライオン購入をめぐる児玉ルート防衛疑惑は解明されないまま、現在に至っている。



今回の「もみ消し」文書に関する朝日新聞の取材に対し、中曽根事務所は「ノーコメント」と回答しているという。



東京地検特捜部はロッキード事件で勇名をはせたが、本筋の児玉・中曽根を追わず、前総理の断罪で幕を引いたとする批判もある。



また、田中角栄逮捕という栄光が、東京地検特捜部の今の凋落の元凶だと唱える識者もいる。大物政治家をお縄にかけることで世間の喝采を浴び、正義を貫き国を守るのは自分たちしかいないという思い上がりが高じていったと言えるかもしれない。



検察がストーリーを組み立て、それに沿って、保釈をほのめかしながら供述を強要してゆくやりかたは、ロッキード事件、リクルート事件、東京佐川急便事件、鈴木宗男・佐藤優事件、佐藤栄佐久事件などにも共通している。




米国に好かれた中曽根は疑惑をくぐり抜け、5年間にわたる長期政権を維持し、大勲位の栄誉を与えられた。



一方、米国に嫌われた田中角栄は、まれに見る政治的実行力で首相の座にのぼりつめ、今太閤ともてはやされたにもかかわらず、メディアの金脈追及でわずか二年間の短期政権に終わり、さらにロッキード事件によって、その名は「巨悪」の象徴となった。 
 


米国に対する中曽根の「もみ消し」要請が何を意図したものか、その真相は本人に聞くしか知りようがないが、朝日の記事にそのヒントを見つけた。



記事によれば、中曽根は「高官名が公表されると三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と米側に指摘したという。



しかし現実に田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行の名がのちに明らかになったものの、中曽根が指摘したような事態にはなっていない。それどころか、三木首相は世論の支持を取りつけるため、政敵の田中角栄をスケープゴートにし、検察の捜査を積極的に後押ししたのである。



大勲位の晩節を汚すことになっては申し訳ないので、できる限り憶測は控えたいが、中曽根の「もみ消し」工作には自身の名前を出さないようにという意味が隠されていたのではないか、という疑念をどうしても拭い去ることはできない。



ロッキード事件の本質とは何だったのか。30億円はどこに流れたのか。いまだに解けない疑問に答えうる数少ない生存者の一人が、中曽根康弘、その人ではないだろうか。

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甲府へ

  • 2010/02/21(日) 20:37:44

ぺそが亡くなって以来、家にはぺそとの思い出がありすぎているのが辛く、久しぶりに遠出をしました。ぺそが自分で餌を食べられなくなってからどこへも出かけられなかったので、気分転換にどこかへ行けば気も晴れると思ったからです。

どこも混んでいて、この日すいていた中央道でどこかへ行こうということになり、東京を離れるにつれ、大きく見える雪をかぶった富士山に、あの麓の方まで行ってみようということになりました。

途中、談合坂のサービスエリアで朝食1000円バイキング。バリェーションに富んでいてこれは喜ばれると思いました。


ここまで来ると、雪をかぶった山々が見えます。


涙がずーっと出続けていたので、眼が腫れて写真に撮れれるのは恥ずかしいのですが。


朝食バイキングでソフトクリームの無料券がついていてそれも食べたりで、ここで随分のんびりしてしまいました。


よく晴れて気持ちのよい日です。南アルプスインターでおりてみました。


道の駅で買物をしたり、ペソのお墓のまわりに植える花などを買いました。

風土記の丘やみたまの湯へ。


雪山と桃の木。


まがたまをかたどったレリーフ。


桃の木ばかりだけれど、今は枯れ木のよう。


眼が腫れていよいよお岩さんのようになって眼を開けているのも辛くなりました。


途中、自家製そばのお店があったので入ってみました。
こしのあるお蕎麦でした。



富士山がよく見えるというループ橋へ。


晴れているので、富士山がひときわ大きく見えます。


冬枯れで、一面茶色ですが、桃の花が咲く頃にはとてもきれいなはずです。


悲しみの中にも心洗われる気持ちです。



山の上にひときわ大きくそびえたつ建物があり、結婚式場みたいだけど行ってみようと行くと、印鑑供養などをする建物でした。

その庭で




このあたりは桃の頃にはきれいな所のようですが、眺めはいいのですが、まだ何の花も咲いてなくて、春になってから来たほうがいいようです。

日が暮れて、甲府の駅あたりで食事をしようということになりました。

東京でもテイクアウトのお店はよく見かけるのですが、持ち帰りではなく、お店で食べるおにぎりやさん「かに屋」へ。おにぎりとお茶漬けだけのお店です。とても美味しかったです。

それから、やきとりの専門店「秋吉」へ。やきとりのチェーン店ですが、5本からの注文になります。何種類か頼み、安くて美味しかったです。東京へも出店しているということです。本店は福井だとか。


甲府駅近くの舞鶴城へ行きましたが、石垣だけが残っていて、公園になっています。

東京へ帰ったときには、日付が変わっていました。疲れたからかぐっすり眠れました。ぺそのこと以来神経が高ぶっていて、まとめて睡眠がとれなかったので、朝まで気持ちよく寝られました。

やっと気持ちも落ち着いてきて、ブログを書こうという気になることができました。


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ぺそ和順庭に眠る

  • 2010/02/21(日) 18:09:41


ありし日のぺそ






2010年2月19日、ぺそが永遠の眠りにつきました。
いっしょに暮らした8年の間、ぺその存在にどれだけ私は励まされたことか。
ぺそは、いつも私に寄り添っていてくれました。
天に召されてはじめてその存在の大きさにまだ心の整理もつきません。


今日になってやっとぺそのことを書こうと思えるようになりました。
子ウサギのときに息子が拾ってきてから、私の生活の中にはいつもぺそがいました。
出かけて帰ってくると飛び出してきて、私を迎えてくれました。
白内障からいよいよ目が見えなくなり、餌をたべることができなくなっても、抱いて食べさせると、猫のようにのどをごろごろいわせて一生懸命お話しています。

そんな子ども返りしたようなときも、餌を食べさせて寝ているときは私はブログをするいうような日が続きました。
ぺそとブログの日々が日課となる生活が10日ほど続いて最期の夜は、添い寝して夜中に水を飲ませたり、明け方冷え込む頃には、床暖房を強めにしたり。

動物病院の先生から「もっても夕方までです」と言われて、家に帰ると我が家がわかるのか、安心したようで、寝たまま水を飲ませると、ごくごく飲み、しばらくすると息づかいが荒くなり、けいれんをしたように手足を動かして、逝ってしまいました。
最期の最期まで「ぺそ!」と呼びかけると、鼻をつんとつきだしてうなづきます。


餌が食べられなくなり、食べさせるようになってから、来る日も来る日も、食事や水や排泄などかきとめた日記

9日からつけたぺその記録は19日で終わってしまいました。



安らかで、きれいな本当に高貴なぺその表情に私はとても救われました。


ぺそといっしょに通った和順庭への道。
いっしょに和順庭に向かうのもこれが最後です。

私がガーデニングをしている間、ぺそは白菜の間や木陰でのんびり昼寝をし、ときどき寄ってきては、ぐるぐる私の周りを廻って「ぺそ!ぺそ!」と言われるのを待っているようでした。
春の花咲く頃、夏の暑い日、秋のさわやかな日、いつもぺそとすごした庭です。

冬のシーズンオフに体調を崩したぺそは、「春になったら和順庭に行こうね」と言う私の言葉に答えることもなく逝ってしまいました。

「寿命だ」「天寿を全うした」と言われても、やっぱり「ああしてあげればよかった。こうすればよかった」と思ってしまいます。


ぺそのお墓をつくり、うさぎの墓標を置き、極楽鳥の花を立てました。


冬の和順庭は枯れて何もなく、こんな所に置いて帰ることに胸がしめつけられる思いです。
あまりにもぺそとの思い出がありすぎて、どこへ行っても悲しくなります。



ぺそがなくなる日、先週から土日も仕事で休みのなかった友達が、この日に限って休みで、家まで来て、運転していっしょにぺそを病院へ連れて行ってくれたり、私の食事の心配をしてくれたりしてくれて、今でも「ぺそは先週亡くなってもおかしくなかったのに、あなたが休みになってくるのを待って見守られて逝ったみたいね。」と話しています。

私が一人のときだったらうろたえるのがわかっているから、それをぺそは見越していて友達の休みのときまでがんばっていたように思えるのです。それぐらいぺそは私のことをいつもいつも心配してくれていたのだと思えるのです。

亡くなる何日か前から部屋の片隅に行き、頭をつっこむような姿勢をとりはじめていたのですが、これは死期を悟ったうさぎのする行為だと亡くなった後知ったのです。部屋の隅でうずくまるぺそを寒くないようにと毛布の上に連れ戻したことが何回かあり、あの世へ行こうとするぺそを連れ戻したような行為だったと今思えるのです。

ソファに座っていると膝の上にぴょこんと乗ってきたり、食事をしていると足元で寝そべっていたり、留守番をさせられて私が帰るのが遅くなると怒ってオシッコをかけて、「こら!ぺそ!」と呼ばれるようなことをわざとしたりするのです。

息子のベットで寝るぺそ



もう朝ぺそが起こしに来ることも、帰ると迎えに出ることもないと思うと、部屋の中が無機質な冷たい空間になってしまったようです。

和順庭に埋葬した帰り、イオンモール「おらが春」でぺそを偲びながらお蕎麦を食べました。朝から食事らしい食事をしてなかったことにこのとき気づきました。


帰って誰もいない部屋のどこへ行ってもぺそのことが思い出されます。

学校でいじめられていたうさぎを娘がもらって飼い始め、半身不随で寝たきりになったところへ息子がぺそ(オスうさぎ)を拾ってきてソフィ、ペソとうさぎを飼い始めて16年、半身不随のソフィ(ぺその前に飼っていたメスうさぎ)の世話に追われ、とてもぺそをいっしょに飼えないと、京都の女子大に行っていた娘のところへ一時行くことになり、新幹線に乗って行ったぺそ。

こどもの成長と共にぺその人生はあり、娘が結婚し、息子が自立し、私は離婚し、それぞれがそれぞれの人生を歩むようになってからも、ぺそだけはずーっと私の傍にいて、私の喜びも悲しみもぺそとありました。

「ぺそ、今までありがとう!安らかにソフィといっしょに眠ってね」と言うことしか今の私にはできないのです。それが悲しくてなりません。

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