13 日航機墜落の真相は?爆発は相模湾上空。尾翼落下は下田沖

  • 2009/11/25(水) 13:14:31




 相模湾で垂直尾翼が発見されたということは、羽田を飛び立った123便が相模湾上空で何らかの衝撃を受け垂直尾翼を失い、制御不能のまま飛行していたということになる。
その後の捜索でこの垂直尾翼は相模湾で見つかり、尾翼落下は下田沖とみられている。 

 『日航機墜落事故 東京-大阪123便 「新聞見出しに見る20年間の記録」』 http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm

の事故直後の8月17日の新聞の見出しには、「 墜落日航機 垂直尾翼、空中で分解後 中央部だけで迷走 垂直尾翼落下 伊豆半島と大島間 発見漂流物は20ヵ所、30片 日米合同調査団が現地入り (毎日)」「 漂着した破片客室天井の一部 第四エンジンも発見(毎日) 」「尾翼落下は下田沖 海流で推定 (山陰)」とある。

また、この 「20年の記録」には、「在りし日のJA8119と、垂直尾翼を失って飛行する事故機 」として垂直尾翼を失った日航機 が秩父大滝上空を飛行しているのが写真に撮影されている。

垂直尾翼が飛ばされた(外部的要因しかない)


埼玉県秩父市大滝は群馬県御巣鷹山とは直線距離にして両神山を挿み、すぐのところにある。

これは、8月16 日の新聞見出しの「写真に垂直尾翼なし 会社員撮影「動かぬ証拠」と断定 航空関係者 (読売)」とあるものと思われる。

相模湾上空で何らかの異状が発生した場合、機体のコントロールが利くようであれば当然羽田へひき返すか、最も近い横田へ緊急着陸するだろう。それがなぜ御巣鷹山の方へ向かったのか?

爆発後横田基地へ緊急着陸する手はずが整っていたのに直前に拒否されて御巣鷹山方面へ向かったとか、自衛隊機2機に誘導されて御巣鷹山へ向かったとか言われているが、なぜ相模湾から御巣鷹山へ行ったのかについてはいまだ不明である。

操縦不能になり機体を安定させるため車輪を下ろし、流れにまかせるように漂いながら着陸できる場所を探していたのだろうか?


爆発後から墜落まで 
 
 「123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。

焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。

 ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のように不気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。

運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく。」


「操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。

航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。

 機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。

一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。

失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。

 7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(2475m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。゜山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。

 操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。

羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた。

 123便には最期が刻一刻と近づいていた。長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。

目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。

 機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。

この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。

 残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。」

というのが、「日航機墜落事故 東京-大阪123便」に書かれている垂直尾翼を失ってから墜落までの様子を追った記述である。



日航事故機は、
◎機体記号 JA8119  ◎型式 ボーイング747SR-100 ◎製造年月日1974年1月30日  ◎製造番号 20783 耐空証明 第48-028 ◎総飛行時間 25,030時間18分 ◎総着陸回数 18,835回  ◎新規登録年月日 1974年2月19日



 事故当日の出発から爆発までは
 
 「1985年(昭和60年)8月12日、ボーイング747SR−100型機のJA8119号機は、日航の定期便として羽田〜千歳503便、504便、羽田〜福岡363便を経て、366便として福岡から17時12分に東京・羽田空港に到着している。18番スポットでその後の123便として大阪への飛行準備をしていた。

 乗客は夏休みを利用した家族連れやビジネスマンが目立ち、509人が搭乗していた。この中には元マネージャーの選挙応援で大阪に向かう歌手の坂本九さんや、21年ぶりのリーグ優勝を目前に控えた阪神タイガース球団社長・中埜肇さん、ハウス食品社長・浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役で女優の北原遥子さんなどの著名人も乗り合わせていた。

 操縦席では左側の機長席には機長になるために訓練中の佐々木祐副操縦士が座り、教官の高濱雅己機長が右席に着いた。福田博航空機関士は、副操縦士席後方の定位置に着席していた。客室では12人の客室乗務員が職務についていた。

日航123便は18時4分にスポット18から移動を開始し、滑走路15に入った。 524人の乗客・乗員を乗せた123便は、燃料3時間15分ぶんを搭載して18時12分に羽田空港を離陸した。

123便は離陸後、機首を180度(真南)に向け、1万3000フィート(3960m)まで上昇をが許可された。このあと、2万4000フィート(7315m)への上昇が承認された。管制は羽田空港進入管制部から所沢にある東京航空交通管制部に移管され、大島の北を伊豆半島の下田市方面をめざして上昇していった。

 18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。

近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。

衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。

 操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。

それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。 」


この「よほどの危険」が何であったのか?出発から墜落までの軌跡をたどるとき、相模湾上空での爆発音が何なのか?なぜすぐに政府は救助に向かわせなかったのかなどいまだに謎とされていることは多い。

御巣鷹山に墜落して520人の身元確認作業の困難さについては、「沈まぬ太陽 御巣鷹山編」にあるとおりだが、真夏の猛暑の中遺体の確認は困難を窮めた。多くの医師・医学者や法歯学者の協力によるところが大きい。確認までには4ヶ月もの月日がかかったというが、それでも二人(うちアメリカ人一人)の身元は確認されなかったという。


この記録におけるその後の記述

「4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった。事故調の認定した墜落時間は「18時56分ごろ」としている。

位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。
 墜落現場は黒沢丈夫上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山の南東2Kmの地点に当たる。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、520人の犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、猛暑という季節的な悪条件も加わって腐敗の進行も早いので、身元の特定は困難の連続だった。

また、この当時はDNA鑑定技術もまだ十分には確立されていなく、地元・群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆けつけ、冷房施設のない体育館での猛暑と腐敗臭や遺体保存用のホルマリン臭など、劣悪な環境の中、多数の人々が協力しあって人海戦術で判別作業を進めた。

最終的な身元確認作業の終了にはおよそ4ヶ月間という時間と、膨大な人手を必要とした。しかし2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は遂に判明しなかった。

 事故調は、2年後の6月19日、事故報告書を当時の橋本運輸大臣に提出。事故原因について、1978年(昭和53年)6月、伊丹空港での「しりもち事故」で損傷した後部圧力隔壁のボーイング社修理チームによる修理がずさんだったため、圧力隔壁が金属疲労を起こして破壊され、急激な減圧とその時発生した衝撃波が垂直尾翼に流れ込み、JA8119号機は垂直尾翼の2/3とテールコーン(補助動力装置などが入っている)を失ってしまったとしている。

 しかし、この「圧力隔壁破壊説」には多くの矛盾が指摘され、事故から20年経っても本が出版され、航空機専門家、パイロットなど乗務員関係者、マスコミ関係者、そして遺族の方々らが真の事故原因解明を求めている。」
           

本文は主に『日航機墜落事故 東京-大阪123便 』(サイト管理人 祝部幸正) http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
からの引用であるが、これは米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」(宝島社刊)から祝部幸正が引用・加筆したものである。


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