7 日航機墜落の真相は? *アントヌッチ証言

  • 2009/11/13(金) 23:42:26





 また、「JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(2)」には、救助しようとして命令により引き返した米軍機アントヌッチの証言について書かれています。

2009-09-06 03:14:34 | 日記■アントヌッチ証言全文

日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?

この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。

本証言の検証は次回以降に行います。


・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です

------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。

現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

[1]
10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。

日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。

最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。

実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。

生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。

事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。

しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

(図:米軍のC130輸送機)

[3]
当時、私は横田基地の空軍中尉だった。

当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。

われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。

(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。

しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。

その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。

こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

[4]
ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。

また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

[5]
われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。

旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。

このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。

123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。

だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。

われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。

そして123便を捜索できないかと聞いてきた。

われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

[7]
管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。

当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。

午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。

地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。

墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。

山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。

私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。

墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。

横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。

1時間で到着できただろう。

[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。

もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。

了解」との返答があった。

「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。

当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。

8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。

われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。

私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

[12]
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。

われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。

管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。

日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。

我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。

グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。

そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。

スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。

ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。

私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。

私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。

あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。

4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。

残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

[17]
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。

私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。

海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。

(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。

午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。

海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

[19]
こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。

『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

[20]
また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。

夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。

後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。

この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。

しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

[21]
私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。

われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。

しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。

そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある

「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」

私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

「23」
日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。

つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。

ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている 』

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6 日航機墜落の真相は? *事故現場を最初に訪れた民間人の証言 

  • 2009/11/13(金) 11:21:52

 


この日航機墜落について調べれば調べるほど疑問が沸き、また多くのブログの信憑性についての判断が難しくなる。

 そんな時、「(新)日本の黒い霧」と題するブログの中の9月10日付の「事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言」に、事故現場の様子が詳しく書かれていた。

『「(新) 日本の黒い霧」(日本航空123便ジャンボジェット機墜落事故の真相、その他の未解決事件、改竄された歴史について考える。)


JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(4)
2009-09-10 17:29:00 | 日記■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 このM氏については、8月4日付「情報源について」のところに

「ご実家に帰省中、たまたま事故のニュースを聞き事故現場を訪れた知人です。その方から、これまでマスコミに登場したことのない貴重な証言を得ました。本人の身の安全のため匿名といたします」とある。


それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。

なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。

-----------------------------(ここから)-------------------------------
司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。


M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。

そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。

たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。

ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?


M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。

そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ

。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。

でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。

ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。

松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。

ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかりました。

着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。

同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4〜50人は居たと思います。

実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。

自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。

手にした4〜50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。

私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。

しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。

また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。

なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4〜50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。


Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。

あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。

この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。

無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。

どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)


Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。

林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。

それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。

しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏[16]:報告は嘘だと思います。

明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。

-----------------------------(ここまで)-------------------------------


以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。

・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
 自衛隊員が既に100名程度来ていた

・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた

・4〜50名の生存者の声が聴こえた

・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった


JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(5)

2009-09-13 21:26:21 | 日記今回は、前回の「闇夜に蠢くもの(4)」で紹介したM氏の証言について、検証を加えたいと思います。

読者の皆様においては、証言の内容が内容だけに、恐ろしい想像は避けられないとは思いますが、ここは何とか冷静になって、事実を見つめていただきたくお願い申し上げます。

なお、事故から24年経ってなぜ今頃こんな証言が飛び出してきたのかについては、事故後にM氏が長期に渡って海外赴任していたこと、最近まで大病を患っていたことなど、公の場で証言を行える状況になかったことを、本人に代わりお伝えしておきます。

■墜落現場は早期に特定されていた

M氏の証言からはっきりわかること、その一つは墜落現場がかなり早い段階で特定されていたことでしょう。

墜落地点の同定については、M氏からCB無線網が利用可能であったとの指摘がありましたが、それ以前に、本人がそうしたように電話で周辺町村に確認するという、最もシンプルな方法で墜落地点をかなり小範囲に絞ることができたのです。まさか、互いに連絡を取り合っている現地の警察や役所がそんなことに気がつかなかったとは言い訳できないでしょう。

もっと直接的な証拠として、12日の21時頃の上空の航空機(戦闘機およびヘリコプター)の動きから、自衛隊も墜落地点を正確に把握していたのは明らかです。

その音を頼りに現地に乗り込んだM氏の行動そのものが、その事実を正確に物語っています。また、白バイ隊の動きからは、警察へ墜落地点の情報が既に伝わっていた疑いが極めて濃厚と判断されます。

そして、「自衛隊に救助活動の主導権を渡した」とされるアントヌッチ証言も、この点では見事に裏付けられたように見えます。

■それは本当に自衛隊だったのか?

M氏の証言、および上記までの説明で、これまで私は、無条件に闇夜に飛行する航空機や現場で活動する人々を「自衛隊」と決めつけて話を進めてきました。

しかし、何を以ってそれが「自衛隊」だと特定できるのでしょうか?それを説明する一つの要素が、アントヌッチ証言です。

アントヌッチ氏が上官の命令で自衛隊に道を譲ったという言説以外には、彼らが自衛隊だと決め付ける理由はありません。

「M氏も自衛隊と認めたのだから、『自衛隊』なんじゃないのか?」と反論が聞こえてきそうですが、それについては、よく考えてみてください。

例えば自衛隊の制服を着ている人物をあなたは無条件に自衛隊員と認めるでしょうか?確かに普通はそう思うでしょう、しかしその人物の所属を聞き出して部隊に確認しない限り、当人が自衛隊員だと断定する理由は何一つありません。

角田四郎氏の著書「疑惑−JAL123便墜落事故」の中にも、公式記録上は事故処理に参加していない「神奈川県警」の詰所が存在したり、しかもその詰所の中の備品に「○○師団」等々、警察の所属名とは縁もゆかりもない記名の物品があったなど、公務関係者の偽装を疑う記述がありました。

ですから、M氏が見たという「自衛隊」という人々についても疑いを持って検証する必要があります。

■自衛隊の装備品ではない「アーミーナイフ」

M氏の証言について、国際軍事評論家のB氏に特に「自衛隊」員の装備について伺ったところ、次のような回答を頂きました。

・大型アーミーナイフは当時の自衛隊の装備品ではない。単純な武器のようでいて
 非常に高価なものなので、当時はまだ正式採用されていなかったはずだ。


・暗視スコープについても、当時の自衛隊レンジャー部隊に少量あったかないか
 だったはずなので、100人分も用意できたとは考えにくい。


・どちらも在日米軍の装備としてなら可能性は高い

つまり、装備品をみる限り、「自衛隊」である可能性は少なく在日米軍の疑いがあるとの見解です。

しかし、証言の中で、M氏が日本語で違和感なく活動中の人物と会話している場面もあるので、おそらく相手も日本人の外見をして、流暢に(普通に)日本語を話していたと考えられます。

その点をB氏にさらに尋ねたところ

・公にはされていないが、在日米軍には在日朝鮮人を集めた部隊が存在する

・通常は基地のガードなどを担当するが、優秀な人物を集めて急遽200人位の部隊を編成するなど造作もないことだ

・日本語もできるし、外見は日本人と区別がつかない。逆にそれが狙い目である

・ガード任務において白人が日本人を撃てば国際問題だし、日本人によるガードでは相手が日本人の時に発砲できない可能性がある。

そこで、在日の彼らが上手く利用される。このような処置は駐留する国の事情に合わせ当然のように行われている

・在韓米軍内にも韓国籍だけでなく在日朝鮮人籍の人員が採用されており、彼らは朝鮮半島の緊張の中で実戦を経験している戦闘プロ集団だ

と、外見からは日本人と全く区別のつかない、米軍所属の朝鮮人部隊が投入された可能性について強く指摘を受けました(*1)。

つまり自衛隊の偽装をした米軍兵士が事故現場に投入された可能性があるということです。

*1 本論では在日韓国・朝鮮人社会に属する人々を非難・中傷する意図は一切ありません。

彼らの中には私の良き友人もいます。しかし、世の中には痛々しいまでの現実があることも事実です。

この点をどうか冷静にご理解ください。いずれは、このような人の区別を口にしなくてよい世界が訪れることを私自身が強く望んでいます。

■呻き声はなぜ消えたのか?

証言に「アーミーナイフ」についての言及があったせいか、ネット上では早速、生存者がアーミーナイフで刺殺されたのだと断定している書き込みが見られます。

何を隠そう、証言を最初に聞いたとき、私も同じ想像をしました。

しかし、ナイフで致命傷を与えたとしたら、その傷跡は鮮明に残るはずで、飯塚訓氏の「墜落遺体」を読めばわかるように、群馬県藤岡市でとられた厳重かつ多数の医療関係者が関る検死体制の下では、医師の目に留まらないはずがありません。

切り口を焼き付けたりするなど、傷跡を目立たないように処置する方法もあったでしょうが、M氏が滞在していた1時間程度の短い時間で、4〜50人もの生存者に対してそこまでやれたとは到底考えられません。

M氏が目撃したのはプロの軍人です。

ナイフを用いなくとも、人を殺害する方法はいくらでもあったはずです。こんなことを考えるのは本当に不愉快なのですが、1990年代、長野県の松本市、東京の都心で発生したあのテロ事件を思い出してください。

小さな布に沁み込ませ、生存者の口元に当てるだけで絶命を誘う薬液など、この人たちとっては当たり前の道具であったはずです。

藤岡市での検死体制も、一人一人に化学的分析を施している余裕はなかったようですし、そのような事態を想定すらしていなかったでしょう。

M氏は指先を失った男性について印象深く語っておられましたが、後から聞かされたとはいえ、絶対に助かると思っていた人がその時この世から失われてしまったことに大きなショックを受けていたようでした。

M氏ならずとも、この証言を聞かされる我々の全てが、おそらく大きな衝撃を覚えたに違いありません。その手法は定かではありませんが、生存者が絶命に至った何かがそこでは起きていた、そのこと自体は間違いのない事実であります。

なお、仮に何らかの殺害行為がこの時行われたとしたならば、その実行者が多くの搭乗者と同じ日本国籍を持つ自衛隊員であったとは認めにくい話です。

それは自衛隊員の良心に期待しての推測ではなく、作戦を指示する立場として、同民族人に対して殺害行為を命令するリスクは、隊員の心変わりによる叛乱など、あまりに高いからです(*2)。

その意味でも外国人部隊の登用は可能性の高い推測と思われます。

*2 これは自衛隊機が日航機を撃墜したとする「自衛隊撃墜説」にも当てはまるロジックです


■自衛隊も無関係ではない

M氏が現場に到着して約1時間後、次の部隊が現れます。

M氏は彼らの履物に注目しています。最初に目撃した「隊員」が急峻な山岳地を見据えた短靴であったのに、その時から、山で不便なブーツの着用になっています。

また、この時刻近辺からは自衛隊が公式に救助に入ったことになっており、自衛隊が自分たちを「自衛隊」と名乗っても全く問題のないタイミングです。

これだけでは、必ずしも断定できませんが、大きな装備の違い、公式発表のできるタイミングであることを考え合わせれば、2次部隊が本物の「自衛隊」であった可能性は高いでしょう。

そこからさらに類推すると、M氏が最初に見た1次部隊と2次部隊の間で現場の引継ぎが行われたのは間違いありません。

だとすれば、両者の間で緊密な連携が取れていなければならないことになります。

「疑惑−JAL123便墜落事故」の中には、この後に入った公務関係者の偽装を疑う記述もあるのですが、仮に2次部隊、あるいはそれ以降の投入部隊が偽装集団であったとしても、それを防衛庁が「自衛隊」であると認めていたのであれば、やはり「最初の集団」と「自衛隊(防衛庁)」の間に何かの「示し合わせ」があったことを否定するものではありません。

簡潔に述べましょう。この救出劇は、米軍在日朝鮮人部隊と自衛隊による共同行為であった可能性が高いと考えられるのです

■再びアントヌッチ証言を問う

「自衛隊に救助の道を譲った」とするアントヌッチ証言。

そして「自衛隊に偽装」した米軍外国人部隊(ただし推定)。

この両者に共通するものは、仮に疑惑の目が救助の初動体制に向けられたり、M氏のような目撃者が現れたとしても、その矛先が自衛隊(当時の防衛庁)もしくは日本国政府に向くよう、つまり何か問題が起きても国内問題の範疇として処理されるよう巧妙に計算された仕掛けと読み解くことが可能です。

また、「自衛隊撃墜説を斬る(1)」で取り上げた、自衛隊の対空ミサイルが原因とするマスコミへの匿名電話と考え合わせると(この情報の間違いは既に指摘済み)、やはり、疑惑の拡大範囲を最悪でも国内問題に留め、在日米軍への波及を抑え込もうする、関係者の意図が見え隠れします。

以上、断定するのはまだ早いかもしれませんが、少なくとも在日米軍が関与し、情報工作を行っている可能性を頭の片隅に置きつつ、事実を検証していく必要がありそうです。


■今なお残る軍夫制度

偽装自衛隊員に関連して、「軍夫(ぐんぷ)」が関与した可能性についても触れておきます。

軍夫とは、辞書によると「軍隊に所属して雑役に従う人夫」とありますが、この軍夫の存在は先の世界大戦の敗戦とともに、日本では死語になったと思われるかもしれません。

しかし、B氏によると、戦後から今に至るまで、軍夫と同じ役割を担う組織が存在し続けているとのことです。彼らは、多くの死体が出る事故現場、放射能など有害物質の汚染が危惧される現場での危険作業など、いわゆる重度の汚れ仕事を公務員に代わって行う組織なのです。

公式の軍夫制度がない以上、それに取って代わる組織は、部落・在日・土建関係者(現場職)など、どちらかというと日本社会で被差別的な扱いをうける人々で、なおかつ、国の重要機密に関る可能性があることから、秘密を守れる組織、別の言い方をすれば統率者の下、組織として統制することが可能な一団であることが求められます(*3)。

要するに、角田氏が接触した謎の神奈川県警機動隊員、謎の日航技術者、ひいては、現場で救助活動を行っていた自衛隊員と思わしき人々の中に、このような軍夫が紛れ込んでいた可能性があるということです。

この説で問題になるのは、彼らがいったい何の目的で、そして誰の指揮下で、出動を要請されたのかという点でしょう。これについては、追って論証していく予定です。

*3 改めてお断りしますが、差別的な意味で彼らを名指しする意図は全くありません。

このような差別的関係を生むのは、彼らの問題ではなく、それを作り出す日本社会そのもの、私たち一般の日本人が責を負うべき問題であると私は考えます。

■回収物は何だったのか?

M氏の証言で次に重要なのは、謎の部隊が回収していた物、それも人命よりも優先される物とは何か?という点になります。

それは、マスコミ、日本国民、そして壮絶な機体の破壊から無事生き延びることができた生存者にすら絶対見られてはいけない物であるはずです。

ここでは、この証言部分が、次回からスタートする「そしてミサイルは発射された」での論証を裏付ける重要な資料であるとだけ、お伝えしておきましょう。』

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