4 日航機墜落の真相は?  * 墜落時にはかなりの生存者がいた

  • 2009/11/07(土) 03:08:02




 墜落時にはかなりの生存者がいたという事実は、生き残られた川上慶子さんやスチュワーデスの落合由美さんの語っていることからもわかる。
 ところが事故調査委員会の報告書には4名以外はほぼ即死の状態と書かれていて、機長などが作る公式の乗員組合連絡会議でも疑問が上がり、事故に関する再調査が求められている。
 事故調査委員会の報告書の疑問点
http://www.alpajapan.org/kannkoubutu/genatsu/PART21.HTM


ーJAL 123便墜落事故25年目の記録
 
 
 

御巣鷹の尾根に捧ぐ

http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-6.html

川上慶子さんの証言


生存者の証言 −川上慶子さんの証言−
−高崎国立病院での証言−

大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?

あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。

飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?

左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。

慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?

暗かった。

真っ暗だった?

うん。

その時何も見えなかった?

見えなかった。

お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?

うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。

その時に何か思った?

うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。

明るくなった時何か見たものある?

木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。

左手が届いたところにいたわけね?

うん。

ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?

出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。

助けられてから、一番うれしかったことは?

知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。

ほかに何かみんなに言いたいことは?

いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。

上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。下の映像はその時公開されたテープのダイジェストと思われる。



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−付き添い関係者への証言1−

・事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配
 り始めたころ。

・機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が
 開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。

・墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。

・最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。

・母和子さん(39)は即死状態だった。

上記の証言は、肉親や関係者に対しての証言。8月18日までに解ったものである。

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−付き添い関係者への証言2−

気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。

みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。

父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。

咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。

突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。

ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。

顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。

8月23日までに解ったもの。墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況を、付き添い関係者にさらに詳細に証言している。よくネットや書籍上で引用されているので、一番有名な証言ではないだろうか。

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−群馬県警・関係者への証言−

最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いた、との証言。

上記の証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。




また以下の「幸せを掴んだ川上慶子さん 」
のブログからもわかる。

http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3af1244c227aa673412f99309b8879fa

 
「幸せを掴んだ川上慶子さん 」

レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。

それ程酷い状況で在った。しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事にる・・。

「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。

慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。

待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。

翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。

慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。

その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

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「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。

『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
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事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。

日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。

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「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。

『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
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「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。

日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。

ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。

小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らした事も在ったのだそうだ。

被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。

嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。

やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。

中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。

今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。

当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。

事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。

最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。

そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。

これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。

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3 日航機墜落の真相は?  * 御巣鷹の山がすすり泣く

  • 2009/11/07(土) 01:57:23




 私が御巣鷹の山へ行ったとき、亡くなったところに墓標が立てられ山全体が墓のようになっているだけでなく、24年経った今でもその山がすすりないているように感じられたのです。

 行くまでこの事故原因について諸説があっても「まさかそんな」と信じられなかったのです。

 それでも実際に行ってみて、これは何か隠された事実があると思えるようになりました。

 墓標のひとつひとつが「無念であると訴えて泣いている」ようで、うまく言葉で説明はできないのですが、山全体からすすり泣きが聞こえるように思えたのでした。

JAL123便 パイロットの苦闘(総集編)オリジナルDVD60分



 そんなとき、このような記事を読みました。

http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html


2007年09月05日

●特殊部隊は墜落現場で何をしたか(EJ第1063号)
 

JAL123便が墜落したのは、午後6時56分です。それから約1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめたのです。その数50人〜100人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していたのです。

1985年8月12日のことです。
 
ちなみに、墜落現場から一番近い自衛隊の基地といえば、長野県松本市の陸上自衛隊第13普通科連隊、陸上自衛隊第12師団司令部のある群馬県相馬原の部隊です。

しかし、ここに集まってきていたのは、そのいずれでもないのです。
 
この上野村三つ岐は群馬県にあり、神流川主流に沿って浜平鉱泉・諏訪山方面から御巣鷹山付近へも、または長野県境のぶとう峠方面へもいける交通の要衝に当たります。

とくに群馬県側から御巣鷹山付近に行くには最適の待機地点といえます。
 
午後9時30分過ぎになって、JAL123便の墜落現場――御巣鷹山方向から信号弾が上がったのです。その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊とおぼしき一団は整然と移動を開始したのです。

そして、御巣鷹山の墜落現場に入っていったというのです。
 
この時刻は、米軍のC−130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致するのです。

つまり、米軍が去るのを待っていて、信号弾を打ち上げたと思われます。彼らはそこで何をしたのでしょうか。

はっきりしていることは、救助ではないことです。
 
その一団の行動は整然として無駄がなく、特殊訓練を受けた部隊のように見えたといいます。

おそらくその一団は自衛隊の秘密部隊であると考えられます。

どこの国にもそういう部隊は存在し特殊任務を遂行するのです。
 
もうひとつ重要なことは、JAL123便が墜落した御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯になっていることです。

したがって、墜落場所からそう遠くないところにその秘密部隊の基地があったとしても不思議はないのです。
 
それにしても、2機の自衛隊機がJAL123便を強引に御巣鷹山付近へ誘導したことといい、墜落場所へ行く絶好の地点に少なくとも50人を超える人数を午後8時(墜落の1時間後)に集めていることといい、そこに何か意図的というか計画的なものを感じるのです。
 
池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念に調べ、何やら作業をしていたそうです。そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。その時点ではかなりの生存者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。

まさに見殺しです。
 
いったいこの特殊部隊は何をしていたのでしょうか。
 
JAL123便が御巣鷹山に墜落した直接の原因について、池田昌昭氏は恐ろしい仮説を立てています。

それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説です。

あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、にわかには信じられない思いがあります。
 
しかし、仮にそうであったとするとツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや、自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、「自衛隊を動かしている存在」−つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあったのです。
 
それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘であるのに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼にぶつかってそれを破壊してしまったことです。
 
しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認されているのです。

もし、JAL123便が横田基地や羽田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら政府や自衛隊は持たないと考えて不思議はないのです。
 
この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL123便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して、機体がこなごなに破壊され、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。
 
そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹山付近の山岳地帯に誘導したのです。

しかし、JAL123便の機長は、それでも必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかというのです。
 
「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。

生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
 
生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であったとしたら、これほど人の道に外れる行為はないといえます。
 
仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。
 
とくにコックピット内は焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。

いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。
                       ・・・[御巣鷹山事故の謎/13]

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自民党議員は政策で勝負を

  • 2009/11/07(土) 01:12:12




テレビで国会中継を見ていて、野党になった自民党の質疑応答には不快感を覚える。

 このような政策で自民党としてはやっていこうと思うというようなものがなく、ただ鳩山総理などの個人資金管理団体の偽装献金問題などせめたてるだけで、対立できる二大政党としては足元にも及ばない。

 「捜査に協力している。捜査の結果を待っている」と言っているのだから、はっきりわかってから質問してもいいことばかりをせめたてる。

 挙句の果てに「それでも総理としての資格はあるのかなど」、聞いていて不愉快になる。

 質問するなら、今までどうやっていたかというより、これからこのようにしてやっていこうと思うという具体的な政策を提示して、国民が納得できるような質問をして欲しい。

 民主党議員のように、もう少し自民党議員も勉強して党としても議員としても政策で勝負すべきであると考える。

 「あなたに言われたくない」という鳩山発言を失礼だと批難するなら、「ヒットラーユーゲントがヒットラーの演説に賛成しているようにみえる」という谷垣発言の方がよっぽど失礼だ。

 民主党議員より小泉チルドレンが一斉に拍手したりしていたときのほうが、よっぽどそのようにみえる。

 自民党議員には、個人を責めて追い落とそうとするより、自らを磨いて代案が提示できるような前向きな議論を求める。

 

 また、在日米軍基地についてまだこれから政府が交渉していくときに、神奈川県知事や沖縄県知事が「渉外知事会」としてアメリカへ行って、「県外、国外への移設は不可能だと思う。いまの(沖縄県名護市)辺野古(への移設)でやっていくしか解決策が見いだせない」などと勝手に言っていいのだろうか?

 沖縄県民がそのように望んでいるとアメリカはとるだろうが、沖縄住民は辺野古への移設でいいのだろうか?

 

自民党議員といい、この知事らといい、何か今までのおごりがあるように思えてしまうのだが。

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